脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『小説 永田町の争闘〜鈴木政権の五百日』

痛いニュース(ノ∀`) : NHK紅白出場者発表!水樹奈々、木村カエラ、レミオロメンら初出場 - ライブドアブログ
流石に『けいおん!』は無理だったか。しかし、またなんとも地味ってーか、小粒な出演陣ですこと。見せ場になりそうなのは嵐と遊助くらいかな。


 少し前の話になりますが、何故か研修先の役員さんの別法人の親睦旅行に熱海に召喚されました。二重のアウェーの中、櫛の歯が抜けるように人の減って行く二次会のカラオケで自棄糞気味に盛り上げ役に徹していたら、向こうのお偉いさんに偉くお褒めに預かってしまいました。うん、「夜は芸者を揚げて乱痴気騒ぎだ」という与太*1を真に受けて、そのおこぼれに預かろうと粘っていただけなのは内緒にしとこう。

信じてる進んでいくいばらの道もあるけど

鈴木善幸
 明治四十四(1911)〜平成十六(2004)年。岩手県下閉伊郡山田町の網元の家に生まれ、1935農林省水産講習所(現:東京水産大)卒業。大日本水産会、全国漁業団体連合会を経て、'47総選挙で岩手1区で社会党(平野力三派)から初当選。'48社会革新党を経て民主自由党に移り、'49総選挙からは保守政治家として通算16回の当選を重ねた異色の経歴を持つ。自民党内では池田勇人*2の「忠臣」と言われ、池田内閣の郵政相、官房長官。その後も堅実な行政手腕とまとめ役としての能力を買われ、佐藤内閣厚相、福田赳夫内閣農相を務めた他、自民党総務会長として10期通算6年7ヶ月在任の記録を作った。'80.7衆参同日選挙の最中に大平*3首相が急死した後、田中派などの支持で第10代自民党総裁に就任。予想外の登場に「ゼンコー・WHO?」の流行語も生まれた。持論の「和の政治」を提唱。奥野*4法相の改憲発言などの圧力に曝されたが、「鈴木内閣では改憲しない」という姿勢を通した。しかし、'81.5訪米時に日米共同声明に謳った「日米同盟関係」の軍事的性格をめぐって伊東正義*5外相と衝突、外相辞任の事態を招いた。またワシントンの記者会見で「シーレーン防衛」を公約したかのような発言をした為、批判を浴びた。'81第二次臨時行政調査会を発足させ、大平内閣の行革・財政再建路線を踏襲したが、'82秋大方の予測を覆して、総裁再選を断念し退陣。'90総選挙にも出馬せず政界から引退。2004肺炎にて死去。(『現代日本朝日人物事典』より引用)

 伊東正義の「日米同盟は軍事同盟」の発言から総裁選直前のドタバタ劇まで。政局らしい政局がないので盛り上がりには欠けますが、1981-'82の政治模様を細大漏らさず網羅しているので、80年代初頭の政治史概観には最適の一冊でしょう。まあ21世紀も10年たった今になって何処にその需要があるかは知りませんが。
 活躍する方々は、裏で策動する岸田中福田ら黒幕連に、ちょこちょこちょっかい出す河本二階堂ら脂っこい連中、そして行革に向けて一人真面目に頑張る中曽根くん。主な議題は予算のゼロシーリング堅持に参院選全国区廃止と隔世の感。他にも90年代から小泉政権時代にかけて大暴れした人たちが切り込み隊長として頑張ってたりとなんとも不思議と懐かしい感じがします。滅び行く自民党への鎮魂歌代わりに、昔を振り返るのもまた風情のあるもんではないでしょうか。

理想高くときにストレス嘆きの雨降られる日も

 何もしないが一番の悪政というのが、個人的信条ですが、この鈴木政権は其の最たるものでしょう。近年では森だの福田だのが似たような失態を犯していた記憶があります。今度の鳩山も同じ臭いがぷんぷんしますが、さあどうなりますことやら。まあ、彼の場合は頼むからいらんことしてくれるなって言った方がいい気もしますけどね。

陸上防衛隊 まおちゃん - ALL MY LOVE / It’s my style

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帰ってきた今日の一行知識

野党自民党の総裁を務めたのは二度とも宏池会
河野洋平谷垣禎一がそう。かっての名門派閥も宮澤でケチつけて以来は首相輩出してないんですね。ハト派嫌いの広島人としては喜ぶべきやら悲しむべきやら。

*1:当然の如く何事も起こらず就寝。返せ俺の女体盛り。

*2:第58-60代内閣総理大臣。正二位大勲位。父吾一郎、母うめ。戦前大蔵省の能吏として累進。戦後その能力を吉田茂に見出され、佐藤栄作と共に吉田学校の双璧としてポスト吉田の最右翼と期待される。60年安保での岸内閣崩壊後後継首相に就任し、「所得倍増計画」により日本の高度経済成長期の繁栄を現出。数々の功績と共に長期政権を担うも病魔に冒され、東京オリンピックを花道に盟友の佐藤に禅譲

*3:正芳。第68-68代内閣総理大臣。正二位大勲位。父利吉、母サク。大蔵省勤務から秘書官として池田勇人の側近として重きを為す。池田死後「大平クーデター」によって宏池会を掌握後は、「三角大福」の争いを経て首相就任。讃岐の鈍牛・アーウー宰相などと揶揄されながらも、明確な対米協調路線でアフガン侵攻などの困難な政局を乗り切るも、四十日抗争の果てのハプニング解散後の衆参同日選挙の只中に憤死。

*4:誠亮。奈良大学理事。第二次田中角栄内閣文部大臣。戦前は内務官僚として特高での弾圧などに辣腕を揮うも、公職追放を免れ政治家に転身。生粋のタカ派として数々の問題発言で物議を醸しながらも、無所属にて3度の入閣と実力を示した。

*5:第二次大平内閣官房長官。無二の盟友として大平を支え続け、彼の急死後は臨時首相代理も務めた。日米同盟関係は軍事同盟との発言で鈴木善幸と袂を分かってからは、宏池会の反主流派として重きを為す。リクルート事件後の後継総裁に擬せられるも人心刷新を主張し固辞。