昨日アメフト京関戦を見に行ったお陰で、今日から始動予定だった新企画の準備が今日中に終わりそうにないので、限りなく私信に近い縮小更新。『更級日記』の作者菅原孝標の女の父菅原孝標の官職上総介とは当時の感覚ではいかほどのものだったのかを考察してみたいと思います。月曜日で図書館もしまってたため、手元の辞書便りの酷く怪しい内容ですが、お付き合いくださいませ。
にしても、京関戦は自軍が間抜けなミスをかましても「ドンマイ!気にせずいこー」などと暖かい声援のかかるお上品な観戦でした。「死ね」「出てくるな」「引退しろ」「昨日一緒だったねーちゃんとはヤレたのか?」等の熱い応援がデフォの市民球場がホームグラウンドの私としてはある種のカルチャーギャップでした。正直不完全燃焼なのですが、関西の皆様はあれで満足なのでしょうか?お陰で準備してた「裁判傍聴行ったのか?」の掛け声もかけれる空気ではなく非常にへタレな観客で終わりました。観客席の真横に応援団張り付いてるのは反則だよ。
Around the World
上総
千葉県中央部の旧国名。東海道の大国(延喜式)。古代、総国が分かれ、上総国となる。国府は市原郡(現市原市)におかれ、9世紀以後親王任国となった。11世紀、平忠常の乱により房総は動揺したが、その子孫千葉氏は勢力をのばす。鎌倉中期以降は足利氏が守護。戦国時代には里見氏が進出するが、その滅亡後、近世では小藩分立。1873年、千葉県の一部となる。(『岩波日本史辞典』より引用)
上総介と言えば若き日の織田信長が有名ですが*1、官位相当では正六位下*2とぎりぎり貴族の範疇に入らな程度の低さです。
しかし、実入りに関して言えば、上総は親王任国*3なので、実質的には大国(後述)の支配者ということでかなりの収入が期待されます。大国の長官では京に近く、寺社勢力が弱い播磨・美濃がダントツの一番人気ですが、中央での出世を諦めるのなら、貴族の荘園も少なく強大な寺社勢力も存在しない関東の大国の国司というのは、中級貴族にとっては最高のゴールといってもいいのではないのでしょうか。