脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

三峯神社

頂き女子りりちゃんによる弱者男性おぢ攻略法note 完璧すぎると話題に:ハムスター速報
弁護士や経営者も含む友人界隈では大絶賛の出来ですねこれ。なんでこの溢れる才能を世の為人の為に活かせなかったんだろうか。やっぱりホストなんていう短期決戦の集金機構は極悪がすぎる。


 ここ数年新橋でやってた事業から完全撤退が確定。港区のあの雰囲気は最後まで肌に合いませんでしたが、いざ縁が切れるとなると淋しくなります。これでおれも完全無欠の千葉県民確定か。

それはまさに現実さお気の毒さま

三峯神社
 埼玉県秩父市三峰にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁別表神社秩父神社宝登山神社とともに秩父三社の一社。拝殿の手前には珍しい三ツ鳥居がある。狼を守護神とし、狛犬の代わりに神社各所に狼の像が鎮座している。
 社伝によれば、景行天皇*1の時、日本武尊*2が東征中、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登って伊弉諾尊*3伊弉册尊*4の国造りを偲んで創建したという。景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む白岩山・妙法ヶ岳・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える。伊豆大島流罪になった役小角*5が、三峰山で修業をし、空海*6が観音像を安置したと縁起には伝えられる。三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を「雲取山」と呼んでいる。
 中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。1182秩父を治めていた畠山重忠*7が願文を収めたところ霊験があったとして、'95東は薄郷(現・小鹿野町両神あたり)から西は甲斐と隔てる山までの土地を寄進して守護不入の地として以来、東国武士の信仰を集めて大いに栄えた。しかし1352足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興*8・義宗*9らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われて衰退した。
 文亀年間(1501-'04)に修験者の月観道満がこの廃寺を知り、30数年勧説を続けて、1533堂舍を再興させ、山主の龍栄が京都の聖護院に窮状を訴えて「大権現」を賜った。以後は聖護院派天台修験の関東総本山とされて隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、「三峯大権現」と呼ばれた。以来、歴代の山主は花山院家の養子となり、寺の僧正になるのを常例としたため、花山院家の紋所の「菖蒲菱」を寺の定紋とした。
 江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された。伊奈忠福の代に、土地山林を寺に寄進し、広く村人に信仰を勧め栄えたが、明治の神仏分離により寺院を廃して「三峯神社」に改称した。1883近代社格制度において県社に列した。明治中期には、社務所に600人が泊まれる施設があり、客のための料理や酒も自家製で賄っていたという。大正末期に秩父宮*10が参拝したことをきっかけに信徒が全国的に増え、講社数が増大した。1939麓から参道に沿って三峰ロープウェイが山頂まで敷設された(2007年廃止)。2004社殿を修復した。(wikipediaより修整引用)


 昔車では行ったことあったんですが、今回は通常の小旅行のフォーマットに則って公共交通機関でGO。感想はただただ人が多い!西武秩父駅始発のバスで行ったんですが、始発なのに20分以上前から並んでないと座れないのは日曜日とは言え流石にかなりびっくり。当然帰りも同じで少しうんざり。特に帰りは登山帰りの大荷物なパーティーもバス利用になるんで難易度爆増。車窓からの景色や途中の寄り道スポットはメチャメチャ充実してるんで、ドライブやツーリングで行くには最高のロケーションだとは思います。日光のいろは坂みたいなバカみたいな渋滞もありませんでしたし。ただ公共交通機関だとオーバーツーリズムに片足突っ込んでる感じですかね。神社自体は広大な神域を維持できてて見ごたえのあるものなのでド平日に休み取れた時にでもどうぞ。

悲しきは魅せられた僕のこの心

 個人的に非常に印象的だったのが馬鹿長い参道を埋め尽くすように建つ奉納碑や奉献灯篭の列。南関東の古くからの名所や住宅街のオンパレードでもし自分が大学生だったら奉納元のリスト作って研究してみてえって思わせてくれるほどの圧巻の質と量でした。ああなんで俺は現役時代あんなにサボって惰眠を貪ってしまったんだろうか。後悔は絶えません。


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*1:第12代天皇。和名:大足彦忍代別。父垂仁天皇、母日葉酢媛命。親征により熊襲を平らげた後、息子の 日本武尊蝦夷征伐を命ずるなど外征に注力し版図を拡げた。

*2:景行天皇、母播磨稲日大郎姫。旧名:小碓尊。父の命により九州の熊襲を征伐し日本武尊の尊称を得る。そののち東征し苦難の果てに蝦夷を平らげた凱旋の途中に伊吹山の神に祟られ横死。

*3:イザナミと共に淡路島を筆頭に秋津島などの日本の国土を形作った。死亡した妻を黄泉国に迎えに行き失敗した際、穢れを得て禊祓により天照や月読を生み、彼等に後を譲って隠遁した。

*4:夫のイザナギと共に淡路島を筆頭に秋津島などの日本の国土を形作った。火之神迦具土を生んだ際に負った火傷により死亡。

*5:父大角、母白専女。元興寺で孔雀呪法を学び、金剛山を拠点に修験道の基礎を確立し、高名を馳せるも讒言により流罪。後世修験道の祖として信仰を集めた。

*6:佐伯眞魚。父田公、母阿刀氏。遣唐使で大陸に渡り、帰国後真言宗を創始。嵯峨天皇の寵愛を受け、金剛峯寺・東寺・綜芸種智院を建立。日本仏教界に巨大な足跡を残した。書家としても著名で三筆の一人に数えられる。代表作:『風信帖』(書)他。

*7:武蔵国男衾郡畠山郷地頭。父重能、母三浦義明女。頼朝の挙兵時には平家方として由比ガ浜の戦い・衣笠城合戦などに参戦。千葉・上総両氏の支援による再起時に頼朝に帰順し、以後宇治川の戦い一ノ谷の戦い奥州合戦などで活躍、創業の功臣として幕府で重きを為すも、北条時政との対立から畠山重忠の乱を招き戦死。

*8:左近衛将監。父義貞、母天野時宣女。南北朝の内乱において父兄とは別行動で北畠親子と共に各地を転戦。観応の擾乱勃発後も、武蔵野合戦で一時鎌倉を占拠するなどの活躍を見せるも、尊氏の死去に乗じて挙兵した際に江戸長門らの手により謀殺。

*9:武蔵守。父義貞、母小田真知女。父義貞兄義顕の戦死により新田家を継承し、正平一統破綻を期に挙兵、武蔵野合戦で一時鎌倉を占拠するなどの活躍を見せるも兄義宗の横死を期に没落し越後に逼塞。鎌倉公方足利基氏の死を契機に武蔵平一揆と共に挙兵するも上野沼田荘での戦いで戦死。

*10:雍仁親王大本営戦争指導班参謀。陸軍少将。大勲位功三級。父大正天皇、母貞明皇后。陸軍にて皇道派の薫陶を受け、二・二六事件ではクーデター成功後の天皇に擬せられるも自重。以後も日独伊三国同盟を推進するなど昭和天皇の宸襟を悩ませたが、肺結核に罹患し静養に入るも薬石効なく戦後病死。