脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

堀江由衣と石黒達昌と建武政権について

VIPPERな俺 : 【朗報】ゼレンスキーのコスプレをした京大生、ウクライナに目をつけられる
流石は我が後輩!OBとして誇りに思います。京大はやっぱこうでなくちゃ。


 引っ越し業務の見積おもっくそミスって2トンロングタイプの函車満杯の荷物を2人で5時間以上かかって運び出す大惨事に。今度からは見栄を張らずに大人しく部下に見積任せようっと。ああ、追加請求通るかなあ。

窓を打つ雨より激しい嵐に揺れてる

堀江由衣

堀江由衣
 昭和五十一(1976)年~。愛称:ほっちゃん。性別:女性。出身地: 日本・東京都。血液型:B型、身長:155 cm。職業:声優・歌手。事務所:ヴィムス。
 日本の女性声優、歌手。ヴィムス(事務所)とKING AMUSEMENT CREATIVE(レーベル)所属。声優ユニットAice5のメンバー。愛称はほっちゃん、ゆいちゃんなどたくさんあるが、一般的に広く使われているのはほっちゃんである。オフィシャルファンクラブ「黒ネコ同盟」副会長。代表作に『DOG DAYS』ミルヒオーレ・F・ビスコッティ役、『ペルソナ4』里中千枝役、『とらドラ!櫛枝実乃梨役、『ゼロの使い魔シエスタ役、『リトルバスターズ!』直枝理樹役、『ミス・モノクローム -The Animation-ミス・モノクローム役、『にゃんぼー!』シロ役、『〈物語〉シリーズ羽川翼役、『魔法つかいプリキュア!』リコ / キュアマジカル役などがある。(wikipediaより修整引用)


 ポスト林原の最右翼として前世紀末にデビューした純血種のアイドル声優のパイオニア。透き通った歌声と富野にも認められる確かな演技力と華やかなアイドル性とで、個人的には未だにアイドル声優といえばこの人か田村ゆかりが思い浮かびます。役も曲も代表作があり過ぎて、いちいち上げるのも・・・なんですが、個人的に印象深いのは『ラブひな』の成瀬川なるや『とらドラ!』の櫛枝実乃梨あたりでしょうか。曲だと「ALL MY LOVE」「スクランブル」「ヒカリ」辺りが世代的なものもあってお気に入りです。ラジオパーソナリティとしても優秀で『オレたちやってま~す』や『天使のたまご』は大学生の頃よく聞いてた思い出が。以上、そこまではまってファンだといえる熱量はないのに、思い出がほぼ無限に湧いて出てくる辺り、四半世紀にわたってトップランナーであり続ける者の凄みを感じます。

石黒達昌

石黒達昌
 昭和三十六(1961)年~。日本の小説家、医師、東京大学講師・文部科学省高等教育局医学教育課専門官・テキサス大学MDアンダーソン癌センター助教授などを経て、令和二(2020)年現在は勤務医。専門は医学教育・外科・消化器科・乳腺科、特に癌免疫、ジクロロ酢酸を用いた癌治療など。
北海道深川市出身。東京学芸大学附属高等学校卒業、東京大学医学部卒業。1989「最終上映」で第8回海燕新人文学賞を受賞。'94「平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに……」で第110回芥川龍之介賞候補。『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに……』で第16回野間文芸新人賞候補。'96『94627』で第9回三島由紀夫賞候補。2001「人喰い病」で第32回星雲賞日本短篇部門候補作。'02「真夜中の方へ」で第126回芥川龍之介賞候補。'03「希望ホヤ」で第34回星雲賞国内短篇部門参考候補作。'05「目を閉じるまでの短い間」で第132回芥川龍之介賞候補。(wikipediaより修整引用)


 実のところ、伴名練氏の日本SFの臨界点でしか読んだことはないのですが、論文風の小説というか小説風の論文と言った方が正しいんではないかと思わせるような硬質で端正な文体が好きな人にはたまらないだろうなあと。個人的にはもう少し装飾過多のケレン味の強い文体の方が好みなので、ちょっと評価は落ちますが、それでも無茶苦茶好感の持てる文章を書かれる方です。個人的には上記収録の「或る一日」「平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、」辺りが非常に印象に残っています。

建武政権

建武新政
 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇*1によって推進された政治。元弘三(1333)年6月の後醍醐還京とともに始まるが、翌年正月に建武改元されたことにより、この元号を冠して呼ばれる。
 後醍醐は単に幕府を倒しただけにとどまらず、摂関・公卿議定・官司請負・知行国などすでに定着していた朝廷の諸制度をも改め、強力な天皇親政をめざした。しかし一部の寵臣を中心とする政治運営や所領知行に対する不安の増大は次第に民心を離反させ、1335.10足利尊氏*2が叛旗を翻し、解体に向かうことになった。(『岩波日本史辞典』より修整引用)


 大昔は「建武の中興」、自分が現役だった頃は上記辞書の見出しの通り「建武の新政」で、今は「建武政権」が流行りの呼び名なのかな?日本史上有数の怪人後醍醐天皇鎌倉幕府室町幕府の二大武家政権の間に狂い咲かせた時代錯誤の天皇親政。力不足を承知で自分なりに概説してみたいと思います。
 まずは前史、両統迭立の果てに、本来傍流たる大覚寺統の更に傍流として即位できてしまった尊治親王こと後の後醍醐天皇。非主流派なのに政治的エアポケットに偶然ハマってトップに立てた者の常として、過激派路線に走ります。院号が定着して数百年にもなるご時世を無視して生前から「後醍醐」*3を自称し、鎌倉幕府相手に二度の叛乱を企図する怪人ぶり。楠木正成を筆頭とする三木一草らの活躍や得宗専制政治に嫌気のさした足利尊氏新田義貞らの協力によりついに鎌倉幕府は崩壊し建武の中興もしくは建武の新政こと建武政権が誕生します。
 しかし、百年以上も政治実務から離れていた公家連中に実務者能力のあるはずもなく、折角定着した土地所有権の撤回や無定見な訴訟取り扱いなどであっさりと人心は離反。鎌倉幕府打倒の原動力となった武家は、公家衆のプライドが邪魔して極端に冷遇されて、わざわざ後醍醐天皇を担いだ理由は皆無。挙句に後醍醐天皇個人の支持母体たる公家にすら、「朕の新儀は後の先例なり」と嘯いてトップダウンの改革を性急に進め過ぎたせいで見捨てられる始末。クーデター待ったなしの情勢でしたが、イニシアチブを持つ足利尊氏が底抜けのお人好しで後醍醐天皇とも個人的にウマが合ったらしく、部下および利害関係者の嘆願もどこ吹く風で静観モード。
 そんな情勢が変わるのは中先代の乱鎌倉将軍府執権を勤めていた最愛の弟直義の危機に勅許を待たず尊氏は独断出兵し乱を鎮圧。直義らの説得により鎌倉に駐屯し半独立勢力を関東に構えますが、中央への干渉は断乎として拒否。どころか、後醍醐天皇宛に個人的な詫び状を出す始末。頭を抱えた直義一派が討伐に来た新田義貞一行に手越河原の戦いでこっぴどくやられると、怒りに任せたお兄ちゃんが新田軍を撃退。晴れて賊軍となった足利尊氏は流石に肚を決めて光厳天皇擁立によるクーデタを起こし、建武政権はわずか二年で瓦解するのでした。
 しかし改めて振り返ってみると後醍醐天皇足利尊氏の個人的パーソナリティに振り回されっぱなしだったんですねこの時代。

初めての出会いは平凡だったけど会う度に過去の誰より惹かれてく

 物足りないと言われつつも数十年に亘り斯界のトップランナーを勤める堀江由衣、強烈な個性に裏打ちされながらも僅か二年の短命に終わった建武政権。やはり強すぎる個性は長期政権には向かないのでしょうか。きっと、石黒達昌の様な強烈な個性は保持しつつも抑制された語り口ってのが理想形なんでしょう。そう考えると、のらりくらりとしつつも無茶苦茶芯の通った政策を打ち出す岸田政権ってのは案外長期政権気付くのかもしれませんね。


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*1:第96代天皇。諱は尊治。父後宇多帝、母談天門院。天皇権威の復活を志向し親政を実施し、正中の変・元弘の変により倒幕を企てるも失敗隠岐に配流。しかし、その行動は全国の反北条氏の機運を掻き立て遂に政権を奪取。建武の親政を行うも公家偏重の政策が武家の反感を買い、足利尊氏の反乱を招き吉野に逃亡客死。

*2:室町初代将軍。権大納言。父貞氏、母上杉清子。旧名:高氏。元弘の変の際幕府に反旗を翻し六波羅探題を落とし、戦功第一として建武の親政の中核を為すも、冷遇された武士層の旗頭とされ、中先代の乱を期に武家政権再興を目指し挙兵。室町幕府を開幕し、南北朝の動乱観応の擾乱を戦い抜いた。

*3:醍醐天皇天皇親政を行い延喜の治と称えられた名君