脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

橘樹神社

山根明 「選手のみんな、東京オリンピックに出れなくても次があるから頑張ってね!じゃ!!」 – watch@2ちゃんねる
うちの会長がこれ見て「組織はこういう無理やり引っ張る剛腕がいないと上手く回らんのに・・・」とシンパシー感じてた。ゆうてもあなた、無茶ぶりはするけど部下への目配りを忘れない気遣いの人ですやん。人ってないものねだりをするんだなあとしみじみ。


 ↑の会長の弟(数か月前まで鉄工所の工場長)が「引退して、ひまー」って嘆いてたんで、接待代わりに施設のぼっこわれた扉の修理を依頼。活き活きと楽しんでくれたようで何よりだったんですが、ちょっと目を離した好きに事情を知らない職員が、業者の人と勘違いしたか「ここはこうした方がいいんじゃない?」って超フレンドリーにタメ口で話しかけてやがって卒倒するかと思った。*1こうやって過度の忖度って始まるのかもしんない。


SRWX進捗

  • 3周目第36話「決戦、ミスルギ皇国」虎王&クリス襲来。トップエース:兜甲児@マジンカイザー

迷い続けてた道さえも今はもう光溢れてる

橘樹神社
 千葉県茂原市本納にある神社。式内社上総国二宮で、旧社格は県社。神紋は「橘」。古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。
 社伝では、日本武尊*2が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛*3が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき」とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」*4とあり、この時祀られたのが由来とされる。
 国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。884.7.15正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰*5が合祀された。『延喜式神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。中世には当社周辺に社領橘木荘(のち二宮荘)を有した。1681正一位が授けられたという。1873近代社格制度において県社に列した。 (wikipediaより修整引用)

 死ぬかと思った!くそ暑い猛暑日に何をとち狂ったか、茂原駅から目的地の橘樹神社まで1時間半のお散歩。道も平坦で適度にコンビニも立地する普段ならどうってことのない行程のはずが、すべてを融かさんとするかのごとき燦々たる烈日の下にあっては無謀の行軍。15分おきにコンビニに飛び込みながら息も絶え絶えになりつつ目的地到着。帰りは意地を張らずに最寄りの本納駅から外房線に飛び乗って帰京。冗談抜きで熱中症になりかけました。なお、一切日焼け対策してかなかったので、翌日同僚に「このくそ忙しい時期にどこに遊びに行ってた」となじられました。なんにせよ、この時期に甲子園だのオリンピックだの画策する奴は気ちがいか重度のサディストかのどちらかです。

何もない場所で抱きしめた想い

 すっかり忘れていた本題の橘樹神社。鳥居をくぐった瞬間数度気温が下がったかにも感じる清涼な神域は古態をよく残しつつも現代の利便性を取り入れた実にバランスの取れた完成度。女神を祀る神社だからかなのか、凛とした雰囲気の中に何とも言えない清潔感を感じさせる素晴らしい空気感は出色。全く観光地化されておらず高潔な立ち位置をキープしてるのも◎。「お姉さま」が好きな人にはたまらない神社ではないでしょうか。


仮面ライダー剣(ブレイド)ソングコレクション(CCCD)

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帰ってきた今日の一行知識

茂原市の面積は丁度100㎢
小数点2桁でも100.01㎢だったのが最近の電子測量で99.92㎢へ。ちっ、いらんことを

*1:現場上がりで人のいいおっちゃんなんで、直接間接の苦情は一切ありませんでした。

*2:景行天皇、母播磨稲日大郎姫。旧名:小碓尊。父の命により九州の熊襲を征伐し日本武尊の損傷を得る。そののち東征し苦難の果てに蝦夷を平らげ凱旋の途中に伊吹山の神に祟られ横死。

*3:日本武尊妃。父忍山宿禰。子に稚武彦王。夫に東征に同行し、一行が浦賀水道で風雨に遭い進退窮まった際に人柱として入水。

*4:釈文:亦進相摸、欲往上総、望海高言曰「是小海耳、可立跳渡」。乃至于海中、暴風忽起、王船漂蕩而不可渡。時、有従王之妾曰弟橘媛、穂積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲没、是必海藭心也。願賤妾之身、贖王之命而入海」言訖乃披瀾入之。暴風即止、船得著岸。故時人号其海、曰馳水也。爰日本武尊、則従上総転、入陸奥国。時、大鏡懸於王船、従海路廻於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境。

*5:大水口宿禰、母葛城宇那毘姫。成務天皇日本武尊の岳父として活躍し、穂積氏の祖となった。