脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

風林火山と日航機墜落事故陰謀説と斑鳩について

カオスちゃんねる : 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」←これさ
「経験を絶対視するな」って意味の警句だと認識してたんですが、「頭のいい奴はわざわざ経験しなくても分かる」って解釈の人多いんですね。結構意外。


 祝『スーパーロボット大戦X』発売。仕事の方は正直それどころじゃないレベルの厄介事やトラブルの過積載状態なんですが、後顧の憂いなく楽しめるように頑張ろっと。


今日の仮想通貨

SRWX進捗

  • 第9話「暗闇の灯火」C・アーミィ&ゾギリア襲来。トップエース:倉光源吾@シグナス

静かに流れる時間を繋いで

風林火山

2007-02-20

風林火山 新潮文庫 い-7-7
昭和三十三(1958)年十二月五日初版発行。337p。
著者:井上靖*1、発行者:佐藤隆*2、発行所:株式会社新潮社
解説:吉田健一*3


 こっそり「しろばんば」を小学生だか中学生だかの読書感想文の課題図書で読んで以来の井上靖。先年大河ドラマ風林火山』の原作に抜擢された本作の初読の感想は、歴史小説じゃなくて時代物だなと。戦国時代の甲斐信濃を舞台にして、現代人と同じ精神構造をした普通の人々が演じる人間ドラマはお好きな人は好きなんでしょうが、自分はちょっと苦手です。取りあえず、政略戦略に関しては人後に落ちない山本勘介が、色恋沙汰になった瞬間にそこいらの童貞以下のポンコツぶりを発揮して、晴信や由布姫に手玉に取られるのに迂闊にも萌えはしましたが。なんにせよ、折角戦国時代に主題を置くんでしたらもっとしっかりと血煙たなびく戦場や、各人の思惑と意地の交錯する政治暗闘劇を描写してもらいたかったなあと思う今日この頃でした。

風林火山 (新潮文庫)

風林火山 (新潮文庫)

  • 作者:井上 靖
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/11/16
  • メディア: 文庫

日航機墜落+米軍

2006-10-27

日航ジャンボ機墜落
 1985.8.12 pm6:12日本航空一二三便ジャンボ機(ボーイング747SR型機)が羽田空港を出発、大阪へ向かったが伊豆半島上空付近にさしかかったpm6:24後部圧力隔壁破壊で操縦不能となり、現在位置の問いあわせを最後にpm6:56頃羽田のレーダーから消えた。当初、墜落現場は長野県北相木村付近と発表されたが、8.13未明群馬県上野村御巣鷹山の尾根で発見された。乗客505名と乗員15名の520名が死亡、生存者は4名の女性客だけであった。操縦不能でpm6:56墜落するまでの約30分間迷走飛行をつづけたが、その間、何人かの乗客は遺書を残している。隔壁破壊は、同機が'78しりもち事故を起こした際のボーイング社の修理ミスからであったが、'89.11前橋地検は修理ミスを解明できないとして関係者全員を不起訴処分とした。(『戦後史大辞典』より引用)


 日本の空は日本人のものに非ず!って訳で、在日米軍に見事に制空権を押さえられて惨め極まりない航空業界に於いて、重大事故の有る度、米軍の関与と陰謀が噂されるのは必然つぁー必然。となれば当然日本航空史上未曽有の惨劇たる日航123便墜落事故にも米軍の影がちらつきます。まず穏当な都市伝説から参りますと、「墜落現場をいち早く在日米軍は特定していて、救助隊も出していたが、面子を重んじる日本政府によって協力を拒絶された」というもの、生存者が「上空でホバリングしてしたヘリコプターが救助もせずに去って行った」って証言をしているなんてデマも流れてましたね。もう一つは、都市伝説の域を超えて陰謀論。「後部圧力隔壁の破壊はボーイング社の修理ミスに起因するものではなく、米軍機の誤射によるもの」というトンデモ説。ソ連軍による大チョンボ大韓航空機撃墜事故に類する失態をでっち上げたかったんでしょうが、流石に無理はあり過ぎやしませんかねえ。なんにせよ、こんな根も葉もない噂が流れなくてすむように、日本も早く空の主権を取り戻してもらいたいものです。

日航123便墜落の新事実  目撃証言から真相に迫る

日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る

斑鳩

2017-02-19
2015-05-28

斑鳩
 奈良・平安朝に見える地名。大和国平群郡のうち。厩戸皇子*4の居所の地名として『日本書紀』に「是の皇子、初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ」*5、「皇太子、初めて宮室を斑鳩に興てたまふ」*6とあるのが初見。 推古13年10月条に「皇太子、斑鳩宮居す」と見えてから、同29年2月癸巳条に「半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ」とあるまで、厩戸皇子は当地の宮室に居住した。ただし『日本書紀』に厩戸皇子が推古29年に没したとあるのは、金石文などによれば同30年の誤りであり、大安寺伽藍縁起并流記資材帳には、飽浪葦垣宮で病臥していたと伝承する。その後斑鳩宮は子の山背大兄皇子*7が伝領し*8、643蘇我入鹿*9・巨勢徳太臣*10・土師娑婆連*11らにより焼かれるまで存続した*12。なお斑鳩には厩戸皇子の子「泊瀬王*13の宮」*14も存在し、飽浪葦垣宮と同所とする説がある。いわゆる太子信仰によって、『上宮聖徳法王帝説』『聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』以降の諸太子伝や『日本霊異記』『今昔物語』などにも『日本書紀』の記述を潤色した記載が見える。狭義の斑鳩宮は現在の法隆寺東院地下遺構を示すとされるが、広義には岡本宮中宮・飽浪葦垣宮(泊瀬王宮)など斑鳩に存在した上宮王家の諸宮を総称した名称であったと推定される。『日本霊異記』下巻16には「大和国鵈鵤の聖徳王の宮の前の路より、東を指して行く。其の路鏡の如く、広さ一町許、直きこと墨縄の如く、辺に木草立てり」と見え、竜田道が官道として整備された状況が知られ、宮殿・寺院とともに斑鳩が都市的景観を有していたことが推定される。739僧行信*15の発願により斑鳩宮跡に仏堂が造営されている。これが上宮王院、すなわち現在の法隆寺東院である(東院縁起)。さらに、現在の法隆寺は「斑鳩寺」*16、「伊河留我寺」*17中宮寺は「鵤尼寺」*18岡本宮は「鵤岡本宮*19とも称された。606推古天皇*20厩戸皇子勝鬘経を講じさせ、播磨国の水田100町を厩戸皇子に施し、皇子はそれを「斑鳩寺」に納入したと伝承される*21。ただし、施入年代や面積については『上宮聖徳法王帝説』『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』『聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝暦』『日本霊異記』などに異同が見える。また、'43蘇我入鹿に襲われた山背大兄皇子らは生駒山中に一度は逃れたが、山を下って「斑鳩寺」で自剄したとある*22、'69「斑鳩寺」に火災が起こったことが記され*23、'70同様の記事が見える*24、再建については記事がないため、いわゆる「法隆寺再建非再建論争」が展開されたが、若草伽藍の発掘により現在では再建説が有力となっている。738「鵤寺」に食封200戸が施され*25、年欠の「知識等銭収納注文」*26に「一貫鵤寺僧泰鏡知識」と見える。文学においても『万葉集』巻12に「斑鳩の因可の池の宜しくも君を言はねば思ひそわがする」と詠まれるほか、仏法の永遠性を斑鳩の富雄川の流れにたとえた「鵤の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ」*27をはじめとする太子信仰の文学的表現として現れることが多く、また和歌の道の象徴としても意識されていた。現在の斑鳩町法隆寺を中心に岡本・三井・幸前にかけての富雄川西岸地域に比定される。平群郡夜麻郷の郷域とほぼ重なる。(『古代地名大辞典』より引用)


 個人的には「石動(いするぎ)」と並ぶ中二心にクリティカルヒットのカッコいい固有名詞。妄想のオリキャラの主人公の名字は大概このどっちかでした。サンライズにも似た感性のお方がおられるようで『コードギアス〜反逆のルルーシュ』や『クロスアンジュ〜天使と竜の輪舞』でも使われてましたね。
 そんな与太話はさておけば、聖徳太子が「阿毎多利思比孤」として王宮を築き、蘇我馬子と角逐した斑鳩宮を濫觴とする地名。近代以前では聖徳太子の故地として、飛鳥のロマンの代名詞のような扱いをされていたようです。現在では中心に鎮座まします法隆寺を中心に奈良観光の拠点に・・・と言いたいとこなんですが、地味に交通アクセスも悪く、奈良の筆頭観光地の座を東大寺に奪われています。それがなくても、京都っていう完全チートが控えてるもんなあ。歴史的価値と観光資源としての価値はなかなか一致してくれないんですよねぇ。悩ましいなあ。

閃乱カグラ 斑鳩 (1/8スケール PVC塗装済み完成品)

閃乱カグラ 斑鳩 (1/8スケール PVC塗装済み完成品)

  • 発売日: 2013/09/01
  • メディア: おもちゃ&ホビー

止めておけないいまがなぜあるのか教えて

エデン

エデン

帰って来た今日の一行知識

武田信玄のあの旗が「風林火山の旗」と呼ばれるようになったのはつい最近
つーか、上記で紹介した井上靖の『風林火山』が元ネタっぽいですね。当時は「孫子の旗」と呼ばれていたようで。戦国モノの創作をする人はご注意を。

*1:父隼雄、母八重。代表作:「天平の甍」、「敦煌」、「闘牛」(小説)他。

*2:新潮社代表取締役社長。父亮一。

*3:中央大学文学部教授。父茂、母(牧野)雪子。代表作:「瓦礫の中」(小説)、「ヨオロッパの人間」・「日本に就て」(評論)他。

*4:摂政。父用明天皇、母穴穂部間人皇女推古天皇の摂政として、蘇我馬子とのトロイカ体制により、冠位十二階・十七条の憲法の制定、遣隋使の派遣などの大改革を行った。仏教興隆にも熱心で法隆寺の建立や『三経義疏』の著述などに功あり。その偉大な功績と子孫の悲劇的な最期から後世に神格化され「聖徳太子」として語り継がれた。

*5:用明元年正月壬子条

*6:推古9年2月条

*7:母刀自古郎娘。推古天皇の死後皇位継承候補筆頭に擬せられるも、蘇我蝦夷に擁立された田村皇子に敗北。その後、その声望を蘇我入鹿に憎まれ攻め滅ぼされた。

*8:日本書紀舒明即位前紀

*9:大臣。父蝦夷蘇我氏家督を継承するとすぐに山背大兄王を攻め滅ぼし、天皇に比肩しうる絶大な権威権力を掌握するも、専横を憎まれ乙巳の変にて横死。

*10:左大臣。大繍。父胡人。当初は蘇我氏と親密で山背大兄王追討の将軍となるも、乙巳の変では中大兄皇子らに協力し蘇我氏を滅ぼした。大化の改新でも重鎮として活躍した。

*11:猪手。大仁。父磐村。来目皇子や吉備姫王の葬儀執行を担当する。上宮王家誅戮の為蘇我入鹿に従い斑鳩宮を襲撃した際に戦死。

*12:同前皇極3年11月丙子条

*13:母膳部菩岐々美郎女。推古天皇後継新争いに於いて兄山背大兄王を後援するも果たせず病死。

*14:同前舒明即位前紀

*15:大僧都法隆寺東院の復興に尽力。

*16:日本書紀推古14年是歳条

*17:法隆寺伽藍縁起并流記資材帳/寧遺

*18:聖徳太子伝暦聖徳太子伝私記

*19:日本霊異記上巻4

*20:第33代天皇。諱は額田部。父欽明天皇、母蘇我堅塩媛。夫敏達天皇の死去に伴い蘇我馬子らに擁立されて即位。聖徳太子の輔弼の下、冠位十二階・十七条の憲法の制定、遣隋使の派遣などの大改革を行った。

*21:日本書紀推古14年是歳条

*22:日本書紀

*23:同前

*24:同前

*25:続日本紀

*26:正倉院文書

*27:上宮聖徳法王帝説・日本霊異記巻4・聖徳太子伝補闕記など