コロコロ主流の中でボンボン読んでた奴は絶対に変人:哲学ニュースnwk
ボンボン派、つーかSDガンダム派でした。そうか俺がΖΖのMS好きなのはその影響か。
祝東京都議選開幕!なんですが、今回は恩義理絡みで投票先が決まってるのでちょっと興醒め。せめて小池一派が「気をつけろ、あの都民ファーストの会は元民主党」でなければ協約破りやってやろうかって気も起きるんですが。
SRWV進捗
あかるくひかる星ひとつみつけました
広島東洋カープ+中村恭平
中村恭平
平成元(1889)年〜。投手。背番号22。左投左打。185㎝82㎏。福岡県出身。推定年俸:900万円。
立正大淞南高校(2004-'06)→富士大学('07-'10)→広島東洋カープ('11〜)
フォークが武器の左腕。2016.5.29DeNA戦で3年ぶりの勝利を挙げたが、'84の球団記録に並ぶチーム12連勝がかかった'16.6.30ヤクルト戦で敗れ、先発枠外に。'17.2元日テレジェニックの清水ゆう子*1と結婚。(『2017プロ野球オール写真選手名鑑』より引用)
'16成績:試合8先発8勝利1敗北1投球回35.0被安打41被本塁打3与四死球18奪三振17防御率5.40FIP4.61
通算成績:試合32先発23勝利2敗北9投球回117.0被安打113被本塁打10与四死球71奪三振61防御率4.69FIP4.70
広島東洋カープ
日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。広島県を保護地域とし、同県広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を専用球場(本拠地)としている。また、二軍*2の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。
特定の親会社を持たない市民球団を源流とする、他球団と比較して特異な歴史を有する。地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており親会社としての球団への資金提供(赤字補填など)など球団経営への積極関与は行っていない。その一方で、マツダ創業家である松田家一族の所有株式を全て合わせるとマツダの所有比率を上回り、議決権ベースでは過半数に達する。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同族経営を行っているという見方もある。市民が直接株式を保有するという意味での市民球団ではないが、特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせているという意味では今なお市民球団のイメージを有する。(wikipediaより修整引用)
誰が読んだかホモパティシエ*3。カープでは非常に貴重な本格派左腕。個人的に打の堂林と並ぶ投手陣での一番の覚醒期待株。ただカープ1軍半投手陣の量産型らしくコントロールはお察しなところは実にトホホ。最速153㎞/hの速球を武器に毎年1度は今度こそ本格化かと思わせる快投を見せてくれるのですが、それが続いた試しもなし。新戦力の擡頭の著しい投手陣にあってはそろそろ本領発揮しないと首が涼しくなりますよ。つーか、自分の投手陣のいつかは覚醒期待株はここ10年長谷川昌幸→齊藤悠葵→中村恭平ときているので、前2名の轍を踏まないようにしてほしいものです。
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豊田穣
豊田穣
大正九(1920)〜平成六('94)年。小説家。満州四平街生まれ。海軍兵学校卒。
艦上爆撃機操縦員として従軍。1943ソロモン海域で撃墜され、米軍捕虜となる。'46帰国。中日新聞記者を経て東京新聞文化部デスクを勤めた。'49『帰還』で第一回横光利一賞次席。'51『ニューカレドニア』『ミッドウェー海戦』などで第一回岐阜県文化賞受賞。'71戦中の体験と戦後の私生活を二重写しに描いた『長良川』('50)で直木賞受賞。『海兵四号生徒』('72)など多数の戦記小説を発表し、伝記小説、剣豪小説、歴史小説にも意欲を見せる。'84満州・大陸・太平洋など四部全一〇巻の大河小説『日本交響楽』を書き下ろし刊行した。(『増補改訂新潮日本文学辞典』より加筆引用)
戦記物の第一人者なんですが、親父の趣味と丸かぶりなのと何より『はだしのゲン』のトラウマとで長く戦記物は敬遠していたので、この方知ったのは確か『宰相・若槻礼次郎』で、その後も氏の伝記物を愛読していたのでてっきり伝記作者なんだとばっかり。通りで戦記パートだけ記述の熱量と分量が異常な訳だ。てな訳で、最近になって氏の戦記小説は何冊か読んでるんですが、一歩引いた客観的な描写が、戦記物の醍醐味である徹底的に主観的な臨場感を損なってる気がして、正直多少好みからは外れます。個人的にはやっぱこの人は戦記小説家というより超一流の伝記作家です。
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義満+一休
足利義満
延文三(1358)〜応永十五(1408)年。室町幕府第3代将軍(1368-'94)。幼名:春王。義詮*4の子。母は石清水神官善法寺通清の娘の紀良子*5。母は順徳天皇*6の玄孫に当たり、その姉妹、仲子崇賢門院*7は後円融天皇*8の生母である。すなわち義満は、母系で順徳5世の裔であるとともに後円融の従兄弟という、二重の意味で皇族の縁戚であった。官は左馬頭、征夷大将軍、参議左中将、権大納言右大将、兼右馬寮御監、内大臣、左大臣、太政大臣を歴任、1383准三宮。
1361四歳のとき、南軍の入京で一時赤松則祐*9の播磨白旗城に避難。9歳で後光厳天皇*10から義満の名を賜る。'67末父義詮の病死とともに足利家督(室町殿)を継ぎ、'68将軍就任、以後康暦の政変('79)で管領細川頼之*11が失脚するまでその補佐を受ける。頼之の後任には斯波義将*12が就任したが、すでに成人に達していた義満は親政を開始。さらに義満は公卿界で累進するとともに二条良基*13の教導で朝儀にも精通し、'83源氏長者、淳和・奨学両院別当をあわせ、准三宮宣下を受け朝廷内で絶大な権力を振るった。このことは後円融上皇を圧迫し、'83.2上皇の上臈局*14刃傷および自殺未遂事件は、両者の軋轢によるものである。一方で義満は、台頭する地方の有力守護の勢力削減に意を用い、'90美濃の乱、'91明徳の乱、'99応永の乱によって土岐、山名、大内各氏を挑発しては弾圧することに成功した。またこの間、'92南朝から神器を接収し絶大な軍事的カリスマ性を帯び、もはや国内では抵抗する者は皆無であった。義堂周信*15の感化で『孟子』に親しみ、中国の革命思想に共感を覚え、やがて義満は王権簒奪の野望を抱くに至る。
'95出家して道義と号した。1401明との国交を回復、'02建文帝*16から「日本国王」に冊封され、勘合貿易による中国銭の一方的頒賜という形で貨幣発行権を掌握した。1393後円融が没すると上皇の王権を吸収して事実上の院政を開き、公家の官職任免に伴う拝賀奏慶や門跡の院務始の礼を北山第で行うよう強制、自らの参内出仕はすべて上皇の儀礼に準じ、伝奏を秘書として「国王御教書」すなわち伝奏奉書を発給して形式上も公武両勢力の頂点に立った。また北山第で顕密高僧による巡祈禱、土御門邸での陰陽道祭という月例の七日七夜の国王の祭祀を制度化し、天皇の神道祭祀の形骸化を図りつつ、自ら「百王説」を廷臣らに質して簒奪正当化の瀬踏みを試みている。かくて1406末通陽門院の病没を足掛りに正妻日野康子*17を准母とすることに成功し、'08次男義嗣*18を皇位候補として北山第行幸を仰ぎ、義嗣の親王元服を行なうが、自らの上皇位が目前に迫った'08.5急死。壮図は挫折した(『朝日歴史人物事典』より引用)
一休宗純
応永元(1394)〜文明十三(1481)年。室町時代の臨済宗の僧。号:狂雲子・夢閨。一説に後小松天皇*19の子。
初め臨済五山派の京都安国寺に入り夢窓派につらなり、周建と号した。学芸を像外集鑑*20、慕竽竜攀*21らに受ける。だが同じ臨済でも在野の林下の禅を求め、1415近江堅田の華叟宗曇*22に参じる。華叟から一休の号を授けられた。同門の法兄養叟宗頤*23とその高弟春浦宗煕*24への批判は苛烈となった。養叟らは大徳寺の主流派を形成するとともに、広範囲への階層へのアプローチを試み、体制内においても紫衣勅許の寺として天皇の権威を借りていた。自らを高踏的な立場に置きながら、禅を世渡りの道具とする輩として、一休は認めなかった。自らの詩集『狂雲集』や『自戒集』で、「栄衒徒」として糾弾してやまなかった。住持として出世するよりも、山林樹下にあることを選び、貧の中で真の禅者たらんとする一休青年期の求道である。しかし、晩年老いと病からか、その行動規範は崩れ、大徳寺の復興を尾和宗臨*25ら堺の商人らの援助を受け成し遂げたり、祖塔造立運動に走るなど、その在り様は、かつて批判した養叟へ自らを重ね合わせる結果となった。大徳寺派僧として異端と称するにおよばない。自らを狂雲と号し、世間から風狂と評された一休のそれは『狂雲集』(上・下2巻、続1巻)に余すところなく吐露されている。また「とんちの一休さん」としては、江戸前期の1668刊の一休の説話集『一休咄』(編著者未詳)以来、急速にその名が広がっていった。(『朝日歴史人物事典』より引用)
「天皇になろうとした将軍」足利義満と「狂僧」一休宗純との絡みといえば、アニメ『一休さん』でトンチ僧時代の一休さんに、屏風に描かれた虎を捕まえろなどの無理難題を申し付けるコミカルな将軍様の姿がすぐに思い浮かびますが、実は史実でもガッツリとした関係というか血縁がささやかれています。その繋がりとはズバリ一休さんは義満の隠し子*26の子供。つまり、将軍様は知ってか知らずか自分の孫と仲良く喧嘩していたことになります。そう考えるとそりゃあ和尚様も必死で一休の出自を隠そうとするわとちょっと微笑ましいですね。
- 作者: 町田宗鳳
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*1:YMN所属。代表作:『情報満喫バラエティ 週末にしたい10のこと!』・『日テレジェニックの穴』(レギュラー)、『Yu-co with Love』(写真集)他。
*3:趣味:お菓子作りと妙に近い同僚投手陣との仲より
*4:室町幕府2代将軍。権大納言。父尊氏、母(赤橋)登子。幼時より父尊氏の名代として活躍。叔父直義死後は評定等の権限を引き継ぎ尊氏と将軍権限を分担した。将軍就任後は南朝との抗争に明け暮れながらも室町幕府の基礎を築いた。
*6:第84代天皇。諱は守成。父後鳥羽帝、母修明門院。和歌管弦に耽溺し政治に関与することはなかったが、承久の変に連座し佐渡に配流客死。
*7:後光厳帝典侍。父善法寺通清、母智仙聖通、養父広橋兼綱。子に後円融帝・永助入道親王・尭仁法親王・尭性法親王。
*8:北朝第5代天皇。諱は緒仁。父後光厳帝、母崇賢門院。細川頼之らに擁立され即位。子の幹仁親王に譲位し治天の君となるも、将軍義満との対立により権威は失墜。妃厳子への傷害事件や自殺未遂などの醜聞により失脚。
*9:禅律方。播磨・備前・摂津守護。父則村。元弘の乱で護良親王に呼応し行動を共にする。建武の親政破綻時は尊氏方につくも、観応の擾乱では南朝に帰順。正平の一統を期に再度幕府方に寝返るなど所属陣営を替え続けた。義満期には寵遇され累進。
*10:北朝第4代天皇。諱は弥仁。父光厳帝、母陽禄門院。正平一統の破綻により足利義詮らに擁立され即位。神器なしでの即位だったため、その権威低下は著しく内外から「偽帝」の誹謗を受けた。
*11:室町幕府第2代管領。相模守。父頼春、母黒沢禅尼。中国管領として足利直冬を逐うなどの軍功を挙げ累進。幼少の将軍義満の後見役として管領に就任し幕政を牛耳るも康暦の政変にて失脚。晩年に復権し宿老として明徳の乱鎮定などに活躍した。
*12:室町幕府第1・3・5・7代管領。右衛門督。父高経。義詮の執事となるも貞治の変にて失脚、康暦の政変にて復権するも、頼之の復権に伴い再度失脚、頼之死去により三度官僚就任。義持期には幕府の宿老として管領制を完成させた。
*13:関白。従一位。父道平、母(西園寺)婉子。義満の後見役として活躍。連歌を大成し、世阿弥を後援するなど北山文化を主導した。代表作:『菟玖波集』(連歌集)他。
*14:通陽門院。後円融帝妃。諱は厳子。父三条公忠。子に後小松帝・珪子内親王。
*15:南禅寺住職。夢窓疎石に師事し、臨済禅に精通。義満・基氏・氏満らの参禅を指導し、絶海中津とともに五山文学の隆盛をもたらした。
*16:明朝第2代皇帝。諱は允炆。父朱標、母呂氏。祖父洪武帝の死により即位。諸王の勢力削減を図るも反撃を受け、靖難の変により横死。
*17:北山院。足利義満室。准三宮。父資康。義子に後小松帝。
*18:権大納言。父義満、母は春日局。父義満の王権簒奪計画の一環として親王並みの待遇で異例の官位昇進を果たすも、義満の急死により頓挫。以後は将軍の兄義持との不和により逼塞。上杉禅秀の乱に連座し処刑。
*19:第100代天皇。諱は幹仁。父後円融帝、母通陽門院。足利義満に擁立され即位。義満生前は傀儡として過ごしたが、死後は南北朝合一の際の条件両統迭立を無視し子の実仁親王に譲位。治天の君として権力を揮った。
*23:大徳寺住持。十刹指定の解除を実現し、大徳寺を幕府の庇護監督下から抜け出させ、町民を主体とする支持層にバックアップされる独立性の高い寺院に昇華させた。
*24:大徳寺四十世。東山乾心・養叟宗頤に師事。応仁の乱後の大徳寺の復興に尽力した。