脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『徳富蘇峰 終戦後日記Ⅱ〜『頑蘇夢物語』続篇』

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この馬鹿に限らず、日本人は「占領者がアメリカ人だった」という奇跡に甘え過ぎです。チャンコロや露助はヤンキーほど甘くねーぞ。


 宿泊編。京都で旅館取ってたら母上様が突如お伊勢参りがしたいとのたまわってくれましたので急遽宿替えした結果、「伊勢外宮参道 神泉」というなかなかの高級ホテルに宿泊することに。料亭並みの遅々としたペースで運ばれてくる料理に、家族一同「飯食ってる気がしない」と完全に貧乏人の感想しか浮かばなかったりと色々ありましたが、一つ大問題が勃発。夕食後に独りで向かった大浴場、入ってすぐの鏡の前に巨大な逸物をいじりながら立膝全裸で物憂げに寛ぐイケメンさん。幸い一瞥を喰らった後はガン無視されましたが、この時ほど自分がブサイクだったことに感謝したことはありません。ハッテン場ならハッテン場って書いとけよこの野郎。


SRWBX進捗

焦燥と放心の反動

徳富蘇峰
 文久三(1863)〜昭和三十二年。明治大正昭和期の新聞記者・歴史家。肥後国葦北郡水俣郷(熊本県水俣市)の豪農徳富一敬*1と久子*2の長男に生まれる。本名:猪一郎。弟に徳富蘆花*3
 父と共に熊本に出て、漢学を学び、のちに熊本洋学校に入学。教師L.L.ジェーンズ*4の感化によってキリスト教に入信、先輩と花岡山山頂で奉教を誓った(熊本バンド)。さらに同志社に学んだが、新島襄*5と衝突し、1880退学。故郷に帰り、自由民権運動に参加、'82私塾大江塾を開き、自らの学習と教育に当たった。'86塾を閉鎖し上京、『将来之日本』を刊行、一躍新進評論家として注目を集める。'87民友社を設立し、雑誌『国民之友』を創刊、青年層を中心に圧倒的支持を得た。この年には『新日本之青年』も出版し、文字通り「明治の青年」の指導者となった。'90『国民新聞』を発刊し、「平民主義」を標榜する言論によってジャーナリズムをリードした。しかし、日清戦争('94-'95)前後から対外膨張を主張するようになり、'97欧米巡覧によって決定的となった。1911貴族院勅選議員。明治後半から桂太郎*6と密接に提携した言論活動を展開し、彼の国民新聞社は2度にわたって民衆に焼き打ちされた。桂死後の大正中期以降は、社会の大衆化に危機感を深め、皇室中心主義による国民道徳を唱え、「近世日本国民史」を連載するなど言論界の一方の雄であった。'29国民新聞社の経営難から退社を余儀なくされ、以後は大阪毎日新聞の社賓となる。(『朝日日本歴史人物事典』より引用)


 戦前最大の知の巨人徳富蘇峰終戦後日記。第二巻の本巻はS21.1.23からS21.6.13の約半年間。新憲法政府案発表、戦後初の総選挙、東京裁判開廷、食糧メーデーと沢山のイベントを前に蘇峰翁が存分に吠えまくってくれています。とは言え、敗戦から半年たって大分鬱モードに突入したか、可愛さ余って憎さ百倍の皇軍および日本国民への罵倒と唐突なミルトンとの交友の回顧と情緒不安定が見て取れます。完全無欠にツンボ桟敷の御隠居さまの繰り言なので、時代史料として扱うには難がありますが、無駄に達者な文章力は健在なので、擬古文の残滓をまとった古き良き時代の美文を堪能しましょう。

この両手を挑発するありふれた偽善さえも

 この日記読んで思うのは、徳富蘇峰東京裁判であげられる「戦争犯罪」の糾弾をほぼ無批判に受け入れていること。金甌無欠の神軍と信じていたものにとっては、不逞行為を働く日本軍という現実は相当ショックだったんでしょう。、信仰対象を勝手に無謬の神聖視しといてちょっと瑕疵を見つけるや否や手のひら返して叩きまくるというのは、日本人の悪い癖だと思います。「どんな清純なアイドルもうんこもセックスもする」この真実をゆめ忘れないようにしましょう。

Prototype

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帰って来た今日の一行知識

靖国神社は戦後すぐの頃財団法人化の計画があった
無宗教の追悼施設ってアイディアは昔からあったんですね。個人的には神道は宗教ではなく文化だと思っています。

*1:熊本県典事。父美信。横井小楠に師事し、その一番弟子として高名を馳せ、熊本県の教育・行政に尽力した。

*2:父矢嶋直明。子に蘇峰・友喜・蘆花・山川常子・河田光子・大久保音羽子・湯浅初子。

*3:健次郎。父一敬、母久子。代表作:『不如帰』・『黒潮』(小説)、『自然と人生』(随筆)他。

*4:Leroy Lansing Janes。砲兵大尉。フルベッキに招聘され熊本洋学校の設立に参画。同校閉鎖後はお雇い外国人として各地での英語教育に尽力した。

*5:七五三太。同志社英学校初代社長。父民治、母とみ。密出国し渡米、熱心なキリスト教徒として帰国後、組合派ミッションの後援により同志社を設立。横井時雄らの英才を輩出するも、同志社の大学化運動の志半ばに病死。

*6:第11・13・15代内閣総理大臣。公爵。陸軍大将。父与一衛門、母(中谷)喜代子。馬関戦争で頭角を顕し、山県有朋の腹心として陸軍畑で累進。第四次伊藤内閣の崩壊により戴冠。当初は二流内閣と揶揄されるも、日露戦争の勝利によりその権力と名声を盤石なものとする。日比谷焼討事件により退陣後後を襲った西園寺公望と共に桂園時代を現出し3度首相に就任するも、大正政変により失脚憤死。