脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『明治・大正の宰相5〜西園寺公望と明治大帝崩御』

痛いニュース(ノ∀`) : 2ちゃんの人気キャラ「クマー」が五輪公式キャラと間違われ新聞に掲載される …ポーランド - ライブドアブログ
釣られる側から釣る側に華麗な転身。しかし、校正担当の首は大丈夫だろうか。


 ついうっかりキーボードに紅茶をこぼしてしまいUとIとOとBackSaceとEnterとF11と\のキーが使えない。というどっかの歌のクラリネットみたいな状況になってしまいました。以前Eが死んだ時にもお世話になったKeySwap君のおかげで応急手当は出来ましたが、キー配列はぐちゃぐちゃに。慣れるまでタイプが大変です。


SRWZ進捗

Touch and Go! ともに闘うんだ Ah

西園寺公望
 嘉永二(1849)〜昭和十五(1940)年。明治大正昭和期の貴族政治家。公家徳大寺公純*1の次男、母は斐子*2西園寺家を継ぐ。のちの侍従長徳大寺実則*3は実兄、財閥住友吉左衛門*4実弟
 王政復古で参与。戊辰戦争山陰道鎮撫総督、会津征討越後口総督府大参謀として従軍。1869家塾立命館(のちの立命館大学)を創設し、長崎に遊学した。'71.1.23横浜を出発、コミューン動乱の最中にパリに到着し、塾やパリ大学で学び法学得業士となる。在野の法学者エミール=アコラース*5の思想的影響を受け、光妙寺三郎*6中江兆民*7・松田正久*8ら留学生と親交を深めた。始め政府留学生、のち私費・宮内省の補助による。'80帰国。明治法律学校(のちの明治大学)講師、東洋自由新聞社長となるが、内勅を受け、抗議的上奏文を呈して辞任。'81参事院に入り、'82伊藤博文*9に従って憲法調査の為渡欧、伊藤と親しくなる。'85オーストリア公使、次いでドイツ公使兼ベルギー公使を務め'91帰国、賞勲局総裁、法典調査会副総裁、枢密顧問官、貴族院副議長を経て日清戦争最中に第二次伊藤内閣文相、また病気の陸奥宗光*10に代わって臨時外相代理、兼任外相として戦後外交に当たる。伊藤・陸奥と外務次官原敬*11との関係が深まった。第三次伊藤内閣でも文相、次いで枢密院議長、更に伊藤の後を原に引き継ぐまで政友会総裁。1906第一次内閣、'11第二次内閣を組織。'12辞職後優詔を受けて元老に列する。'24松方正義*12没後はただ一人の元老として後継首相の推薦や天皇の最高政治顧問を務めた。フランス思想と漢学の教養は抜群。自由主義と伝統的権威との間を揺れながら、議会主義と英米協調外交を推進しようとした。(『朝日歴史人名事典』より引用)


 第1次西園寺内閣「毒殺」から大正政変まで、日露戦争後の微妙に停滞感漂う時代のお話だけあって、爽快感とは程遠い展開の連続です。西園寺はぼーっとしてて何も出来ないうちに陰険姑息な桂の策略によって二度にわたって退陣に追い込まれ、桂はその間強権政治を展開し、社会主義者を弾圧し、大陸侵略への端緒をつけた。というのが大筋の脚本。特に日韓併合大逆事件に費やす紙幅と情熱は尋常ではなく、作者の執念すら感じさせます。悪逆非道の桂の陰謀に嵌って苦しむ政友会や大韓帝国日本社会党の面々に同情したい人にはおススメ。思う存分悲憤慷慨できますよ。

形通りのはめ込みパズルなんて

 ヒロシマに生まれてしまった所為で、大の反進歩主義者になってしまった私ですが、心の奥底にたぎる政治的情熱は既得権益打破を唯一無二の信条とする典型的な反体制派です。おそらく左翼が一種の巨大権威に成り果ててしまっている時代と地方に生まれてなければ、アナーキニズムにでも傾倒していたかも知れません。そう思えば、あの悪名高き広教組の教育もあながち間違ってはいなかったのかもしれませんね。素直で従順な優等生を進歩主義に、過激でへそ曲がりな危険分子を保守派に誘導。意外と中庸路線の維持にはうってつけな気がします。

Get over the Border!~JAM Project BEST COLLECTION VI~

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帰ってきた今日の一行知識

南北朝正閏論争の発端を作ったのは幸徳秋水
裁判で自棄になって「今の天皇なんて足利の傀儡の北朝の子孫じゃねーか」と吼えたのが、論議をよんだ模様。どうして左な方々は都合のいい時だけ親皇家になるんでしょうか。

*1:右大臣。従一位。父鷹司政通、母(徳川)鄰子、養父徳大寺実堅。条約勅許や和宮降嫁などに反対し何度も失脚しながらも、公武合体派の公卿として幕末回天に奔走。

*2:徳大寺公純愛人。

*3:第2代内大臣。公爵。父公純。宮内卿内大臣侍従長を歴任し、宮中府中の別の堅持に尽力した。

*4:友純。住友銀行初代社長。父徳大寺公純。旧名:隆麿。住友家第15代当主を襲名し、住友銀行創始者となる。茶人・風流人としても著明で数々の文化的功績も残す。

*5:Emile Acollas。パリ法科大学長。急進的政治思想家として、第一インターナショナルに参画。「平和と自由の同盟」を創始。

*6:明治法律学校講師。フランスに遊学し、帰国後外務省に勤務。退官後も講師・検事・議員などで活躍した。

*7:父元助、母(青木)柳。「東洋のルソー」とも称される先進的思想家で『東洋自由新聞』や『自由新聞』などの執筆を担当する。自由党の闘士として政界でも活躍するも、土佐派の裏切りによる自由党の「堕落」に失望し下野。代表作:『民約訳解』(翻訳)他。

*8:第二次西園寺内閣大蔵大臣。男爵。父横尾只七、養父松田勇七。自由民権運動に傾倒し、自由党を経て政友会に参加。政友会の重鎮として文相・法相・蔵相を歴任し、第一次護憲運動の中核的役割を果たし、西園寺の後継総裁に擬せられるも病死。

*9:第1・5・7・10代内閣総理大臣。公爵。父林十蔵、母(秋山)琴子。イギリス渡航の経験を活かし、馬関戦争の戦後処理などで活躍。維新の元勲の一人に数えられる。維新の三傑の死後の明治十四年の政変で大隈失脚後は山県と共に絶大な権力を握り、憲法制定と議会制民主主義確立に尽力。4度の首相経験で政党との協調の必要を痛感し、自前の政党立憲政友会を建党。穏健派として日露戦争韓国併合に反対するも、韓国初代統監に就任したのを逆恨みされハルビンにて安重根により暗殺。

*10:第二次伊藤内閣外務大臣。伯爵。父宗広、母(渥美)政子。幕末に海援隊の一員として活躍し、明治初年度に重職を歴任するも、藩閥政府の横暴に絶望し下野。後藤象二郎に唆され反乱に加担し投獄されたところを伊藤に拾われ、以降伊藤の右腕として活躍。特に外交では不平等条約改定や日清戦争戦後処理など「カミソリ大臣」と呼ばれるほどの辣腕を揮った。

*11:第19代内閣総理大臣。正二位大勲位。父直治。陸奥宗光の引き立てにより外務官僚として頭角を表し、伊藤の誘いにより立憲政友会に参加。第三代総裁として山県と角逐。米騒動・シベリア出兵などの困難な時局に初の本格政党内閣を組閣。「平民宰相」と親しまれた国民的人気を背景に対英米宥和と積極内政を推し進めるも、財閥寄りの政策を憎まれ暗殺

*12:第4・6代内閣総理大臣。公爵。父正恭、母袈裟子。島津久光の小姓として幕末回天に活躍。維新後は大久保利通の知遇を得て累進。明治十四年の政変以後は財務担当の筆頭として金本位制復帰などの各種改革を推進し、明治期の財政を安定に導いた。