脱積読宣言

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『徳富蘇峰 終戦後日記〜「頑蘇夢物語」』

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よしまだ頭は錆びてなかった。


 夏を満喫キャンペーン第二弾。思い出したくもないくらい派手に麻雀負けました。えぐえぐ。


魔装機神Ⅲ進捗

  • 第13話「追跡者エラン」バーゼミュート傭兵団と交戦中。トップエース:ギド=ゼーホーファー@ディンフレイル。

徳富蘇峰 終戦後日記ーー『頑蘇夢物語』

徳富蘇峰 終戦後日記ーー『頑蘇夢物語』

嘘みたいな静けさはわずかな綻びが弾ける前触れのようだ

徳富蘇峰
 文久三(1863)〜昭和三十二(1957)年。明治・大正・昭和期の評論家。肥後水俣郷士徳富一敬*1の長男、徳富蘆花*2の兄。同志社英学校中退。
 熊本洋学校に学び花岡山の盟約に参加。洋学校閉鎖後、京都の同志社に移ったが、不満を持ち退学。しかし校長新島襄*3への敬愛は変わらなかった。1881帰郷して大江義塾を創設すると共に地方新聞等に執筆。'85『第19世紀日本の青年及其教育』、'86『将来之日本』を出版、'87上京して民友社を結成、雑誌『国民之友』創刊、'90『国民新聞』創刊。進歩的平民主義の立場に立つジャーナリストとして知られた。しかし日清戦争後、内務省参事官となるなどして変節を非難され、'98『国民之友』は廃刊された。1911貴族院議員となったが、'13政界を離れ、以後評論家として活躍。'37『近世日本国民史』全50巻で学士院恩賜賞受賞、'43文化勲章を受章。その皇室中心の国家主義思想は、第二次大戦下の言論・思想界の一中心となり、'42大日本言論報国会々長。敗戦後、公職追放の指名を受け熱海に蟄居した。300冊に及ぶ著書がある。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)

 戦前最大の知の巨人徳富蘇峰終戦後日記。第一巻たる本巻は玉音放送から翌21年の正月13日まで。冒頭こそ「承詔必謹は臣道の常である。爾後和戦の問題については、決して口外する勿れ」と国語の教科書にも載せたいような名文句で始まるものの、段々抑えがきかなくなって東條・近衛を筆頭に軍部・政党・官僚・重臣ら上層部に向かって敗戦の責任論の痛罵を浴びせつづけ、挙句の果てには天皇陛下にまで「あんたには覚悟が足りなかった」とその舌鋒を緩めない姿には明治の知識人の気概を感じます。まあ言葉を換えれば「お爺ちゃんたら、まあまあ」って苦笑いしか起きないってことですが。
 とまれ、一時代を築いたその文章は飽くまで美しく、若干耄碌の入りつつある頑迷固陋さを差し引いても現在の読書に堪えうる出来となっています。つーか、敗戦後でもこれだけ吼えるんだったら、戦中はどれほど無茶な精神皇国論をぶち上げてたのか興味が尽きないところでもあります。取りあえずサヨク避けに本棚に一冊どうぞ。

明日の理想だけで語り継ぐような美談にもならないけど

 本人いわく「戦後百年後の人々のために書いた」の負け惜しみもかくやと思わせる、自身を旧弊と半ば悟りつつも新時代の潮流に向かって蟷螂の斧を振り上げたその姿は尊敬の一語。そして、戦後半世紀の長きにわたった言論界の進歩的硬直主義を乗り越え、百年を待たずしてこの一冊を上梓できるに至った講談社の勇断と進歩的主義の後退は誠に寿ぐべきものがあります。願わくはこの勢いで彼の戦中のプロパガンダが全て堂々と刊行できるような世の中になりますことを。

Prototype

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帰ってきた今日の一行知識

徳富蘇峰ギネスブック認定の最も多作な作家
代表作の『近世日本国民史』だけで全100巻4万ページ超の超々大作。更に享年94で最晩年まで70年以上に亘り精力的に著作に没頭した結果刊行した著作はゆうに300冊に届く有様。昨今の過小評価が信じられない近代最高の知識人の一人です。

*1:熊本県典事。子に蘇峰・蘆花。横井小楠に師事し、肥後のち熊本の民政に尽力。

*2:父一敬。代表作:「不如帰」・「黒潮」(小説)、「自然と人生」(随筆)他。

*3:七五三太。同志社英学校初代校長。父民治、母とみ。アメリカ密留学中に受洗し、帰国後キリスト教々育に尽力。同志社英学校及び女学校を設立し多士を輩出する。同志社の大学化の活動の途上で志半ばに病死。