脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『戦争の日本史 6 〜源平の争乱』

http://blog.livedoor.jp/video_news/archives/1211911.html
門下に色街抱えるのが神社仏閣の伝統。西洋かぶれのお高くとまった聖職者の仮面脱ぎ捨てて、古き良き下品で親しみ易いくそ坊主に戻ってくださいな。


 散財が怖くてまだ神田には立ち寄れてないにも関わらず、何故か部屋を埋め尽くす本の山。ほんまとうきょーはおそろしかとこですばい。さあ引越しどうしよ。

源平の争乱 (戦争の日本史6)

源平の争乱 (戦争の日本史6)

まごころ彷徨うプラネット炎の色に染めて

治承・寿永の乱
 治承四(1180)〜文治('85)年源氏と平氏の対立というかたちをとって展開した全国的内乱。保元元('56)年の保元の乱から文治五('89)奥州藤原氏の滅亡までをいうこともある。源平合戦・治承の乱とも。
 1170年代後半に入ると、平氏の専横に対し、従来平氏を支持した貴族層を含めた反平氏運動が後白河上皇*1を中心として高まりを見せた。これに対し、'79.11平清盛*2上皇を幽閉し、平氏の独裁体制を確立したが、却って寺院勢力など、より広範な層の反発を招き、'80.4源頼政*3上皇の第三子以仁王*4を擁して挙兵、興福寺園城寺もこれに呼応した。この挙兵は直ちに鎮圧されたが、諸国の源氏に対して発せられた平氏征討を命じる以仁王の令旨をきっかけとして、内乱は全国に拡大。'80.8.17伊豆に配流されていた源頼朝*5は、北条時政*6らと挙兵し、伊豆国目代山木兼隆*7を討ったが、続く石橋山の戦いで敗北し、三浦氏の援助によって安房に逃れた。ここで上総・下総・安房の武士団の協力を得て再起した頼朝は、更に在地の武士団を糾合、'80.10.6源氏所縁の地である鎌倉に入って本拠とした。'80.10.20富士川の戦い平氏の追討軍を退けた後は関東に於ける支配の強化を進めた。'81.閏2平清盛の死、'81.3墨俣川の戦い以後は、飢饉の為もあって戦乱の小康状態が続いたが、信濃で挙兵して北陸道に勢力を広めていた源義仲*8は、倶利伽羅峠の戦い平氏軍を破り、'83.7入京。平氏安徳天皇*9を奉じて西走した。義仲は上皇と対立し、頼朝に寿永二年十月宣旨が与えられると、'83.11クーデターを敢行した。これに対し、頼朝は弟の義経*10・範朝*11による義仲追討軍を発し、'84.1宇治川の戦いで義仲を滅ぼした。更に平氏追討の宣旨を得た頼朝は、京都回復を目指して福原に進出していた平氏軍を'84.2.7一の谷の戦いで破り、'85.2屋島に逃れた平氏軍を奇襲した屋島の戦いによって瀬戸内海の制海権を奪取。'85.3彦島に拠る平氏軍を、伊予・熊野の水軍を擁した義経が攻撃して、壇ノ浦の戦いで遂に平氏一門を滅ぼし、内乱は一応の終結を迎えた。(『日本史広辞典』より引用)


 幕末戦国三国時代の次位には人口に膾炙している源平合戦。その虚構と誇張に満ちた物語のベールを剥いで歴史の実相を露に。って体裁の一冊。流石安心の吉川弘文館ブランドで読み応えのある本となっています。それでいて意外と読みやすいのは企画がかの小和田哲男先生のお蔭か。
 普段取り上げられてこなかった部分を力を入れて扱っているので、義仲軍とか行家とかが非常に目立っています。正直甲斐源氏が源平の争乱の序盤戦の主人公だったなんてのは初めて知りました。勿論我らが頼朝一党も大活躍で、義経は最後のとどめの美味しいところを掻っ攫っただけで、源氏勝利の柱石となったのは大将軍範頼の地味で確実な地盤固めの賜物というブックはなかなか想像力を掻き立てられます。
 専門書と一般書の危うい境界線を走り抜ける珠玉の一冊。歴史好きを名乗るなら是非ご一読を。

謎めいた悲しみを焼き砕け十文字に

 抹香臭い平家物語の所為か、なんだか戦国や南北朝のような男の戰いって臭いのしない源平合戦ですが、その分平安のどろどろ宮廷闘争の残滓を深く宿したなかなかえもいわれぬ珍奇な味わいの時代となっています。公家から武家へ日本史が塗り替えられる直前の逢魔が刻。そんな最上の素材を手垢の付きまくった平家物語義経記の占有物にしておくのは文化の損失です。野心溢るるクリエーターの皆さん。次のホットスポットはここにあるかもしれませんよ。是非チャレンジを。

ANIMEX 1200シリーズ(169)破邪大星ダンガイオー 音楽集

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帰ってきた今日の一行知識

義経は短身出っ歯の醜男
義経記』で主人公に抜擢された際に、短身を活かして女性と見違うばかりの美形に造形されたのが今のイケメン義経の始まり。日本人の優男好きはジャニに始まったこっちゃなかったんですね。 

*1:第77代天皇。諱は雅仁。父鳥羽天皇、母待賢門院。鳥羽上皇の死により兄崇徳上皇保元の乱で治天を争い勝利。若い頃は「今様狂」と揶揄されるバカ殿だったが、長じてからは、平清盛木曾義仲源頼朝源義経ら時の実力者に接近離反を繰り返す強かさを見せ、滅び行く院政の維持に一役買った。

*2:太政大臣従一位。父忠盛、母祇園女御の妹。保元・平治の乱の勝利と、日宋貿易の独占とで得た莫大な財力を背景に朝政を牛耳り、「平氏にあらずんば人にあらず」の平家全盛時代を現出。晩年は後ろ盾だった後白河法皇とも対立し、各地の源氏も蜂起するなど、平家の落日を憂いつつも病死。

*3:右京権大夫。従三位。父仲政、母藤原友実女。鵺退治の伝説に名を残す程の武名と共に二条天皇の側近として活躍。平治の乱以降は平清盛に接近し、平家政権下にあって源氏の長老として重きを為す。晩年以仁王と共に挙兵するもあっさり鎮圧敗死。

*4:後白河天皇、母藤原成子。異母弟憲仁親王立太子を目指す平氏の妨害に遭い、親王宣下も受けれず、冷飯喰らいを余儀なくされる。父後白河法皇の幽閉により、窮地に追いやられ、源頼政に擁立され、暴発気味に挙兵するも、あっさり鎮圧戦死。しかし、死の間際に出した「以仁王の令旨」は各地の源氏の一切挙兵の引き金となった。

*5:鎌倉幕府初代将軍。右近衛大将。父義朝、母由良御前。父義朝の平治の乱での敗北により伊豆に配流。そこで、以仁王の令旨に呼応し挙兵。関東武士団を糾合し、木曾義仲平氏奥州藤原氏らを打ち破り、日本初の武家政権を樹立。

*6:鎌倉幕府初代執権。遠江守。父時方、母伴為房。娘婿の頼朝の挙兵にいち早く呼号し、関東制圧の原動力となり、以降は頼朝の片腕として京都との折衝など難問に挑み鎌倉幕府成立に貢献。頼朝死後は梶原・比企・畠山ら重臣連を粛清し、若年の将軍実朝に代わり下知状を発給するほどの権力を手にするも牧氏事件により失脚。

*7:伊豆国目代。父平信兼。京都で検非違使を勤めるも罪を得て伊豆に左遷。そこで源頼朝の監視役を命じられるも、頼朝挙兵の手土産とばかりの山木館襲撃により戦死。

*8:征夷大将軍従四位下。父義賢、母小枝御前、養父中原兼遠。以仁王の令旨に呼応し、北陸宮を奉じて挙兵。旭将軍と称される程の破竹の進軍で、平氏から京都を奪還。しかし、飢饉による兵糧不足による乱暴狼藉により都の民心を失い、山陽道でも平氏に連戦連敗。後白河法皇に見捨てられ、法皇の宣旨に応じた義経らに攻められ、粟津の戦いで戦死。

*9:第81代天皇。諱は言仁。父高倉天皇、母建礼門院。全盛を極めた平氏に奉じられ、僅か2歳にして即位。平氏の落日は覆いがたく、壇ノ浦の戦いで、平家と運命を共にした。

*10:伊予守。従五位下。父義朝、母常盤御前、養父一条長成。兄頼朝の挙兵に呼応し流浪先の奥州から参陣。類稀なる武才を以って、平家を滅亡に導く。しかし、後白河法皇への接近を頼朝に憎まれ失脚。奥州藤原氏を頼り再起を図るも、鎌倉の圧力に負けた泰衡に切り捨てられ衣川の戦いで敗死。

*11:三河守。従五位下。父義朝、母池田宿の遊女、養父藤原範季。通称:「蒲冠者」。頼朝の代官として義仲・平家追討の大将軍を勤める。その功により、鎌倉幕府成立後も重用されるが、政子らに叛意を疑われ失脚憤死。