脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』

http://news4vip.livedoor.biz/archives/50793927.html
今まで貫禄不足だの、所詮傀儡だのぼろくそ言ってましたが、過ちでした。安倍総裁あなたなら日本を、いや世界を変えられる。


 9/22のコメントでリクエストされて急遽読みさしを繰り上げて更新することにしたのですが、色々あって読了が今になりました。このサイト以外にもまだやらなきゃいけないことがあるんですが、私は今日寝れるんでしょうか。脳天気に「水曜どうでしょう?」なんて見てるんじゃなかった。

煌く雄姿は 大いなる力と 優しさに光るエンブレム

後藤田正晴
 大正三(1914)〜【平成十七(2005)年】。戦後の官僚・政治家。徳島県出身。東京帝国大学卒。内務省に入り、昭和四十四(1969)年警察庁長官。過激は爆弾テロなどで強力な指揮ぶりを発揮。'72退官し田中角栄内閣の官房副長官に起用され、'74参院選に立候補、落選したが金権選挙の典型を示した。'76衆院当選。第2次大平内閣で国家公安委員長北海道開発庁長官。第1〜3次中曽根内閣では内閣官房長官を3回、行政管理庁長官・総務庁長官を各1回務める。(『コンサイス日本人名事典 改訂版』より抜粋。【】内は管理人註)

 その男廉直を旨とし、いざ動かば機に応じて剛毅果断。魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿においても、欠片もその理想を汚さず戦い抜いた勇者。しかし、時代が彼を必要とした時、最早彼の体は激務に耐えれる状態ではなかった・・・
 「幻の総裁」後藤田正晴の生涯を、当代無双のフリーライター保阪正康が赤裸々に描く。悪官汚吏ののさばる政治に絶望する前に、彼のような廉吏の居たことを知るべきである。


 彼の死から一年たち、後継者の後藤田正純*1氏の活躍もあり、再評価の気運の著しい後藤田正晴氏の伝記です。しかしながら、生前の書であり、インタビューを元にした本でもあるため、必然的に肯定的な筆致で書かれているのが残念です。まあ平たく言えば、阿諛追従の集合体というべきでしょうか。後藤田陣営のプロパガンダには最適の経典だと思います。
 てな感じで、客観的評価には糞の役にも立ちそうにない当著ですが、事績は細大漏らさず網羅されており、練達の筆者の文章は非常に読みやすく、感情移入も容易なので、一読の価値は十二分にあります。特に世に出る以前少年期・青年期の章は、べた褒めしつつも、実はこんなワルなとこもあったんだぜ、と親近感を沸かせる絶妙な筆致であります。今後自伝のゴーストライターで糊口を凌ぐ予定の売文屋さんは必読です。

遠い神話の世界に 伝えられた 奇蹟を 求めて

 以下備忘録ついでに、事績の再編集。全面肯定な礼賛文に些かうんざりしているので、多少意図的に負のバイアスをかけています。ファン及び信者支援者の方はお気をつけ下さいまし。

青少年期

 省略。要約すると糞真面目な学生だったようです。数学が得意で英語が壊滅的な成績だったので、一高に入れず、数学重視・英語軽視の高校を選んで、水戸高校に入学したというエピソードは微笑ましいですね。受験戦争の苛烈さは今も昔も変わらぬようで。

官僚時代

 艱難辛苦のその果てに、トップエリート内務省に入省した彼ですが、時代は彼の栄達を阻み、僅か一年で召集され、台湾へと派遣されることになりました。運良く台湾は戦場となることはなく、そこで無為な6年をすごした後藤田は昭和21年6月に内務省に復帰します。当初は地方局に配属され、地方自治法の制定に着手しますが、6年のブランクは大きく、さしたる成果も上げれぬまま警視庁保安部へと異動されました。

 警察畑に移った後藤田は水があったか、八面六臂の大活躍を始めます。刑務課長のポストにあっては大リストラを敢行し、警察予備隊の立ち上げに関与。機動隊を創設したのも彼です。その後、旧内務省たる自治庁の省への昇格運動のため、助っ人に行き、運動の成功を手土産に警察庁へと復帰します。

 押しも押されぬ出世頭の彼は「カミソリ後藤田」の異名を欲しい侭にします。安田講堂陥落やあさの山荘事件の指揮を取ったのは有名ですね。ゴールの警察庁長官時代には、よど号ハイジャック事件など、過激派の撲滅に尽力しますが、最後は事前に情報を手にしながらも、皇居への過激派の乱入を防げなかった失態とともに引退します。

政治家時代

 本人は野心もなく、楽隠居を決め込む予定だったようですが、稀代の能吏を在野に放っておけるほど日本は人材の宝庫ではありません。田中角栄に見出され、官房副長官に抜擢という花々しい政界デビューを飾ります。
 その後議員の座を手にするため、地元徳島から出馬しますが、いかんせん徳島は田中のライバル三木の王国。田中金権選挙の象徴とまで言われる恥も外聞も振り捨てた実弾射撃の甲斐もなく落選。以降もこの選挙は田中批判の格好の的とされ、後藤田が生涯田中に頭の上がらぬ理由となりました。結局臥薪嘗胆の果て二年後の衆院選で念願の当選を果たすのですが、この時の経験で、選挙のノウハウを完全にマスターし、自民党でも有数の「選挙に強い政治家」となるのですからまこと人間万事塞翁が馬です。

 時代は飛んで*2中曽根内閣。政治改革の難題に対処するため信頼の置ける部下*3を欲した中曽根と、キングメイカーとして院政を引きたい田中との思惑が一致し、後藤田の入閣が決定します。以降は田中派と中曽根派とを結ぶ紐帯として、中央集権的政府の中枢の一員として、辣腕を振るい、その名声を確固たるものとします。

 田中が倒れて以降は、主に義理立てしたか無派閥を貫き、政治改革、小選挙区制の導入のみを悲願に活動を続けます。しかし、高齢には勝てず、55年体制崩壊後、自民・反自民双方から宰相擁立のオファーを受けながらも、高齢と持病を理由に引退します。もし彼の体が丈夫だったら、「小泉改革」の断行は10年早かったのではないかと思われ、非常に惜しまれます。なお、悲願だった小選挙区比例代表並立制が直後に議会を通ったのは、歴史の皮肉です。

まとめ

 この上なく有能かつ真面目で清廉な官僚。これが彼を一言で表す最も適切な表現でしょう。彼自身は官僚という種族に最後まで批判的だった様ですが、間違いなく同族嫌悪と言えます。自身が設立に関与した警察予備隊のロジックに囚われ、新しい時代の自衛隊を想定容認できなかったところなど、悲しいほどに官僚的です。 

辛苦の時代を 君が描く 愛に満ちた日々へ

 「治世の能吏、乱世の奸雄」とは英雄への最大級の賛辞でしょうが、世の中上手くいかないもので、内政能力と政治家としての資質はなかなか両立しないようです。超一流の政治家が内政には泣きたくなるほど無能の典型が小泉や角栄だとすれば、逆の代表が後藤田という政治家でしょう。官僚時代の事績や中曽根内閣での活躍を見るまでもなく、彼が不世出の能吏だったのは論を待たないでしょうが、残念ながら政治家としての資質・能力には合格点はつけづらいのではないでしょうか。政治家として大成するには真面目すぎました。日本の不幸は彼を存分に使役できる度量と環境を持ったリーダーが田中と中曽根以外にいなかったことでしょう。

 「有能な汚吏か、無能な廉吏か」いつの時代にも付きまとう究極の二択ですが、我々はどちらを選ぶべきなのでしょう。最も今の日本においては無能で無責任な悪官汚吏の一択以外許されてないのでしょうが。

今日の一行知識

あさま山荘突入決死隊の選定基準として後藤田長官が示したのは「長男・妻帯者は除け」
保阪氏は下々の機微にも通じた情の深い通達と絶賛ですが、現場指揮官の佐々氏の感想は「警察庁の親心は有難いけど、全然実情に合わないんだな、これが」 小さな親切、大きなお世話もここまで行くと清々しいですね。

鋼の救世主(メシア)

鋼の救世主(メシア)

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*1:甥の子

*2:この間も田中の側近として、政策立案に選挙対策にと縦横無尽の活躍はありますが省略

*3:後藤田は内務省で中曽根の二年先輩。トップエリートのプライドと裏腹に旧内務省出身者で総理になったものは未だなく、中曽根戴冠は悲願だった