脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『至福千年』

 ようやく読了。休み休み読んでたら三日かかっちゃいました。昔はこの位一気に読破できてたんですが、歳はとりたくないもんです。それはさておきこの石川淳『至福千年』岩波文庫(1983)ですが、感想を一言で言い表すなら、「もったいない」といったところでしょうか。色々な要素が詰め込まれているのですがその全てが中途半端で、作者の能力・テーマ・読者の要望、これら全てのベクトルがてんでバラバラな方向を向いている観が否めません。無駄に多い登場人物と中盤での不可解なメンバー入れ替えが迷走を物語ります。群像劇として見ようにも個々のキャラ立ちが弱く、作者の愛も感じられないので、感情移入する気にもなりません。特に主人公格の三人の内二人(松太夫と冬峨)のキャラがかぶっているのはいただけません。更に、章のごとに場面と視点がくるくる入れ替わるので、通読するととっ散らかった印象が強く、無理やり物語に惹きつける魅力が損なわれているように思えます。逆に言えば、一話完結に近く、何処から読み始めて、何処で終わっても満足できる連載もの鑑とも言えるでしょうか。個々の描写やテーマには優れた面が多々見受けられますが、結局としては破綻した失敗作としか言えないでしょう。「賤なるがゆえに聖」というモチーフは個人的に大好物なので、非常に残念です。
以下ネタバレ注意

至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)

至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)

ミレニアム

 世は幕末、激動する時代に蠢く秘密結社「千年会」。隠れキリシタン加茂内記を首魁とするこの組織は、内記の妖術で非人下人を煽動し、幕府を転覆し、江戸に千年王国を築こうと企む。それに対するは、同じキリスト教徒ながら、マリアを奉ずる穏健派松太夫。江戸の平穏と非人の宿願は如何なる結末を迎えるか。
 と清く正しい低俗娯楽小説を期待させる出だし(表紙のアオリも上記のノリで長編伝記小説なんて謳ってんのは正直詐欺だと思う)ですが、実情はというか作者の目指したのは、戦前のプロレタリア文学に通じる階級闘争を啓蒙する高尚な純文学だったようです。しかし下手に文章がうまい為に、小林多喜二らのような素朴な怨念というのが感じられず、非常に中途半端な印象です。かといって、開き直ってエンターテイメントと割り切ろうにも、底を流れる作者の昏い情念が邪魔します。 
 敵役の加茂内記は、作者が下手に実際の政治とのリンクを狙って幕府の実力者と知り合いにしたからか、手段(幕府転覆)と目的(非人下人の楽園の建設)を取り違えた小物になってしまいます。しかも本来肯定されるべき松太夫も、ブルジョアジー(庭木の松屋)という身分が作者に嫌われたか迷走の挙句途中で姿を消します。もう独り主人公格として狂言回しの役を与えられた俳諧師の冬峨がいるのですが、彼も大人しく傍観者に徹するでもなく、積極的に仲介を努めるでもなく、状況に流されては中途半端に介入し、状況をややこしくするだけです。主人公三人がこれだと話のまとまろうはずもありません。これら自分の役割に無責任な登場人物に加え、全体に漂う革命礼賛臭といい、キリスト教(=西洋)かぶれといい、悪い感じで時代(単行本は昭和四十二(1967)年発行)を反映しているといえるでしょう。
 ひととおりくさし終わったところでいいとこ探し。文章は簡便かつ煌びやかで読んでてストレスを感じません。しかし、この作者は足軽や非人などの低層階級をモチーフにした作品が多いようですが、信仰吐露シーンの迫力といい、四季折々の行事や江戸各地の名所の細やかさなどといい、上層階級の煌びやか且つどろどろした日常を描いた方が似合うんじゃないでしょうか。ここら辺能力と書きたいものの不一致を感じさせてもったいないです。

まとめ

 キャラはたっていませんがそれぞれに与えられたテーマは重厚かつ興味深く、各人をスピンオフさせてそれぞれ別の作品にできるのではないかと思わせます。返す返すも中盤での方向転換が惜しまれます。階級闘争の拘りを捨て、穏健派の松太夫を肯定される側、過激派の加茂内記を敵役と割り切り、宗派対立を主眼に描けていれば、もう少しすっきりした娯楽小説足りえたのではないでしょうか。時代が移り我々の時代へのアンチテーゼとして、団塊の世代が再肯定されるまで、評価されそうにない作品です。しかし、客観的に見て「失敗作」なこの作品が、被差別階級がメインテーマというだけで、他の名作を押しのけ文庫化されてるあたり、岩波の業を感じさせます。

今日の名言

この世を挙げて一度は地獄と化す。そこから憤怒をもって立ちあがるものこそ、はじめて地上楽園の住人となりうるぞ。
キリスト教徒の本音、でしょうか。一度地獄に落とされた者の子孫としては複雑です。