脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『勝負の極意』

 珍しく執筆意欲に溢れてるんで連投。とはいえガッツリしたもん読む余裕はないんで、読み返す必要のないやつをば。浅田次郎『勝負の極意』幻冬社アウトロー文庫(1997)。多分二度目の浅田次郎。『鉄道員』ヒット前に口に糊する為に書き散らかした競馬指南書と余ったページに処女講演を文章化。明らかにやっつけ企画の匂いがプンプンするのに、しっかり読ませるんだからたいしたもんです。『じゃじゃ馬グルーミン★UP』位でしか競馬をしらない私ですが、負けを覚悟でウィンズへと走りたくなりました。明日でも行ってみようかしらん。以下ネタバレ注意。

勝負の極意 (幻冬舎アウトロー文庫)

勝負の極意 (幻冬舎アウトロー文庫)

私はこうして作家になった

 まず処女講演から。自衛隊→サルベージ屋*1→ブティック経営→小説家と妙な職歴を持つ浅田氏ですが、小説家になるというのは当初からの目標だったらしく、各時期にどんな苦労をして修行を積んだか、というのがメインテーマです。幾度の新人賞落選にもめげず40の声を聞いてからデビューを果たした氏の執念は凄まじいですが、一般的には文才なんてのは天賦のものなんで、何年努力しようが無理なもんは無理みたいです。バブル期の名残でフリーライターも溢れてるみたいですし、まだ暫くペン一つで世を渡ろうって人には氷河期が続きそうです。閑話休題。氏は当時ピカレスク作家から本格派への移行期にあったのですが、この講演でも自分が今までユーモア悪漢小説*2のは不本意で、自分は本当は本格的純文学なのだと強調しています。『極道放浪記』で氏を知ってファンになった身としては非常に残念です。「文壇」の「純文学」偏重主義は大概にして欲しいものです。清く正しく俗物的なエンターテイメントこそが「小」説のあるべき姿だと思います。最後に氏の勧める文章修行法、「名作文学をともかく筆写すること」だそうです。アナクロな浅田氏らしく微笑ましいのですが、効果は保証します。本気で作家を目指す若人は試してみてください。華麗な文章が身につくはずですただし、これをやっても構成力は身につかないのは浅田氏が身をもって実践*3してますので、そこはシナリオライター養成講座にでも通ってください。

私は競馬で飯を食ってきた

 続いて競馬指南書。戦術論ではなく戦略論で、競馬における経済観念の重要さを説いています。JRAの25%*4という法外なテラ銭*5に負けず、終始決算をプラスに持ち込む為には、遊びで買うんじゃなく真剣にやらねばダメだというのが結論でしょうか。昔から飲む・打つ・買うは男の甲斐性などと申しますが、さもありなん、と思わせます。博才の欠片もない身としては大変憧れます。「偶然すなわち神と闘う者は、常に神秘的威厳に満ちている。賭博者もまたこの例に洩れない」(by芥川龍之介)こんな文章で始まる競馬指南書が何処にあるでしょう。スポーツの皮をかぶる現在の競馬を邪道と切り捨て、競馬場を女子供の入れぬ鉄火場と位置づける氏の感覚は時代遅れながらも、いやだからこそ、鮮烈な感動を残します。もちろん実利的実践的な解説も多々あるのですが、それでも十分過ぎるくらい「ブンガク」に成り得てるのは、氏の底知れぬ才能を感じさせます。

まとめ

 結論。博打は打つものじゃなく開くもの。なので今後の対策。業務連絡。後輩諸君へ。次回からは場所代いただきます。

今日の一行知識

 孔子は博打肯定派*6
人生一発逆転ジャンピングチャーンス

*1:いわゆる整理屋。倒産した会社に乗り込んで残った債権を根こそぎにして行くのが主なお仕事。典型的なインテリやくざ

*2:氏の作品では『プリズンホテル』『きんぴか』が代表

*3:長編のまとめ方は正直ぐでぐでですが、短編の構成力は流石直木賞作家と唸らせるものがあります。

*4:控除率自体は20%だが配当の十円以下は切り捨てられるので実質こうなる

*5:いわゆる場所代。個人でこんな控除率で賭場開いたら罪名の賭場開帳の上に詐欺の一文がおまけについてくるほどの暴利。ちなみに語源は寺。江戸時代半ば治外法権の寺で賭場が開かれてたのが由来。

*6:博奕なるものあらずや。これを為すは猶お已むに賢れり。

汚名挽回

 思い立ったが吉日、唯我独尊勝手に言語学のコーナー。基本的に世間様に舌を出すスタンスなので、テストで書いても大っきく×されるのがオチなのでお気をつけ下さい。

 昨今のプチナショナリズム(by香山リカ)の風潮に乗って、「正しい日本語」がブームですが、その中で「役不足」と並んで槍玉に挙げられる「汚名挽回」。下手に使うと「汚名返上」か「名誉挽回」の間違いだよ、と鬼の首でもとったかのように突っ込まれます。しかし、これは言葉狩りされねばならぬほど間違った表現なのでしょうか。

 とりあえず、世間様の評価を探ってみましょう。しかし、名誉挽回も汚名返上も故事来歴のある由緒正しい言葉ではないので、権威ある大きな辞書では相手にしてもらってません。なのでもう少し卑俗な四字熟語辞典でもあたってみましょう。一冊だけ汚名挽回に言及したのがありました。

なお「汚名挽回」という表現は「名誉挽回」との混同から来たもの。

いきなり雲行きが怪しくなってきました。しかし大丈夫です。所詮あの悪名高い*1岩波の辞書。しかも館外持ち出し可の一般書扱いの簡易辞書。これにて一件落着というわけにはいかないでしょう。とはいえ「汚名挽回」の成り立ち自体はこの通りでしょう。なので、今度は語義を元に意味が通るか否かを考察してみましょう。

 せっかく手元にあるので、『岩波四字熟語辞典』から、

  • 「汚名返上」殊勲をあげて、不名誉な評判を打ち消すこと。
  • 「名誉挽回」失敗して一度失った信頼を取戻すこと。

なんだか分かりやすくしようとしすぎて不正確になってる気はしますが、まあ大意としてはは問題ないですね。次各部の辞書的意味。ちなみに出展は『大漢語林』です。

  • 「汚名」かんばしくない評判。不名誉。
  • 「名誉」1、ほまれ。よい評判。名声。2・3・4省略
  • 「返上」お返しする。返すの敬語
  • 「挽回」もとに引きもどす。恥をそそいだり、遅れていることを取り返したりする。回復。

上三つには問題ないですが、「挽回」について補足。現代国語では上記の意味に加えて、派生的意味として「取り戻す」の意味も含有してます*2

 さて組み合わせてみましょう。「名誉挽回」「汚名返上」問題ないですね。「名誉返上」返しちゃいけません、明らかな間違いです*3。問題の「汚名挽回」、「芳しくない評判を回復する」。十分意味が通りそうです。事実一般的表現として「頽勢を挽回する」というのもありますし、「汚名(という状態)を(元の、汚名を蒙る前の状態へ)挽回する」という言い回しは十分理に叶ったものだと判断できます。

 では何故、「汚名挽回」が間違いと勘違いされているのでしょうか。それは各語の意味の広がりを考慮せず、単純に「対義語」に当てはめる風潮が招いたものだと考えます。「名誉」の対義語が「汚名」であるからして、「挽回」は「返上」の対義語だと誤解*4されたのが全ての発端でしょう。「汚名(そのもの)を返上する」の構造にそのまま挽回の意味を当てはめて「汚名(そのもの)を挽回する」=「芳しくない評判を取り戻す」と解釈され、間違った表現のレッテルが貼られたのでしょう。もう一組の組み合わせ「名誉返上」が誰の目にも明らかに間違っているというのも不幸でした。

まとめ

 結論としては、「汚名挽回」は「名誉挽回」と「汚名返上」の混同から生まれた表現ではあるが、意味としては間違ってない。というところでしょうか。しかし昨今の「正しい日本語」ブームは日本語の矯正の美名の下に、言語の進化の可能性を刈り取っているような気がしてなりません。前述の「役不足」ももう少しで新たな意味を獲得できるところだったのを無理やり矯正され、意味の広がりを極度に限定された使いにくい表現に後退してしまった気がします。我々はもう少し日本語の可能性を信用して、誤用に寛容になってもいいんじゃないでしょうか。

追記

正しくない日本語 - 脱積読宣言
この話題に関しては、3/12のエントリーでも考察しているので、御参照下さい。

今日の一行知識

「新(アラ)たな」は誤用で「新(アタラ)な」が本来正確な形*5
ここにも正しくない日本語が

参考文献

岩波書店辞典編集部編『岩波四字熟語辞典』岩波書店(2002)

岩波四字熟語辞典

岩波四字熟語辞典

谷沢永一渡部昇一広辞苑の嘘』光文社(2001)
広辞苑の嘘

広辞苑の嘘

鎌田正・米山寅太郎『大漢語林』大修館書店(1992)
大漢語林

大漢語林

新村出編『広辞苑 第五版』岩波書店(1998)
広辞苑 第五版 普通版

広辞苑 第五版 普通版



*1:広辞苑の嘘』を参照するまでもなく、広辞苑の時事ネタ・古語の扱いと誤認誤用っぷりは酷いもんです。正式な文書を書くときは面倒でももう少し大きな辞書で確認を取りましょう。

*2:もとへもどしかえすこと。とりかえすこと。回復。(『広辞苑 第5版』より)

*3:正規表現は「名誉失墜」

*4:挽回の意味を「(物を)取り返す」に限定すれば間違いではない

*5:「新しい」が連体詞化した「あたらな」の言い間違い「あらたな」が語感の良さからか定着してしまったらしい

『至福千年』

 ようやく読了。休み休み読んでたら三日かかっちゃいました。昔はこの位一気に読破できてたんですが、歳はとりたくないもんです。それはさておきこの石川淳『至福千年』岩波文庫(1983)ですが、感想を一言で言い表すなら、「もったいない」といったところでしょうか。色々な要素が詰め込まれているのですがその全てが中途半端で、作者の能力・テーマ・読者の要望、これら全てのベクトルがてんでバラバラな方向を向いている観が否めません。無駄に多い登場人物と中盤での不可解なメンバー入れ替えが迷走を物語ります。群像劇として見ようにも個々のキャラ立ちが弱く、作者の愛も感じられないので、感情移入する気にもなりません。特に主人公格の三人の内二人(松太夫と冬峨)のキャラがかぶっているのはいただけません。更に、章のごとに場面と視点がくるくる入れ替わるので、通読するととっ散らかった印象が強く、無理やり物語に惹きつける魅力が損なわれているように思えます。逆に言えば、一話完結に近く、何処から読み始めて、何処で終わっても満足できる連載もの鑑とも言えるでしょうか。個々の描写やテーマには優れた面が多々見受けられますが、結局としては破綻した失敗作としか言えないでしょう。「賤なるがゆえに聖」というモチーフは個人的に大好物なので、非常に残念です。
以下ネタバレ注意

至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)

至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)

ミレニアム

 世は幕末、激動する時代に蠢く秘密結社「千年会」。隠れキリシタン加茂内記を首魁とするこの組織は、内記の妖術で非人下人を煽動し、幕府を転覆し、江戸に千年王国を築こうと企む。それに対するは、同じキリスト教徒ながら、マリアを奉ずる穏健派松太夫。江戸の平穏と非人の宿願は如何なる結末を迎えるか。
 と清く正しい低俗娯楽小説を期待させる出だし(表紙のアオリも上記のノリで長編伝記小説なんて謳ってんのは正直詐欺だと思う)ですが、実情はというか作者の目指したのは、戦前のプロレタリア文学に通じる階級闘争を啓蒙する高尚な純文学だったようです。しかし下手に文章がうまい為に、小林多喜二らのような素朴な怨念というのが感じられず、非常に中途半端な印象です。かといって、開き直ってエンターテイメントと割り切ろうにも、底を流れる作者の昏い情念が邪魔します。 
 敵役の加茂内記は、作者が下手に実際の政治とのリンクを狙って幕府の実力者と知り合いにしたからか、手段(幕府転覆)と目的(非人下人の楽園の建設)を取り違えた小物になってしまいます。しかも本来肯定されるべき松太夫も、ブルジョアジー(庭木の松屋)という身分が作者に嫌われたか迷走の挙句途中で姿を消します。もう独り主人公格として狂言回しの役を与えられた俳諧師の冬峨がいるのですが、彼も大人しく傍観者に徹するでもなく、積極的に仲介を努めるでもなく、状況に流されては中途半端に介入し、状況をややこしくするだけです。主人公三人がこれだと話のまとまろうはずもありません。これら自分の役割に無責任な登場人物に加え、全体に漂う革命礼賛臭といい、キリスト教(=西洋)かぶれといい、悪い感じで時代(単行本は昭和四十二(1967)年発行)を反映しているといえるでしょう。
 ひととおりくさし終わったところでいいとこ探し。文章は簡便かつ煌びやかで読んでてストレスを感じません。しかし、この作者は足軽や非人などの低層階級をモチーフにした作品が多いようですが、信仰吐露シーンの迫力といい、四季折々の行事や江戸各地の名所の細やかさなどといい、上層階級の煌びやか且つどろどろした日常を描いた方が似合うんじゃないでしょうか。ここら辺能力と書きたいものの不一致を感じさせてもったいないです。

まとめ

 キャラはたっていませんがそれぞれに与えられたテーマは重厚かつ興味深く、各人をスピンオフさせてそれぞれ別の作品にできるのではないかと思わせます。返す返すも中盤での方向転換が惜しまれます。階級闘争の拘りを捨て、穏健派の松太夫を肯定される側、過激派の加茂内記を敵役と割り切り、宗派対立を主眼に描けていれば、もう少しすっきりした娯楽小説足りえたのではないでしょうか。時代が移り我々の時代へのアンチテーゼとして、団塊の世代が再肯定されるまで、評価されそうにない作品です。しかし、客観的に見て「失敗作」なこの作品が、被差別階級がメインテーマというだけで、他の名作を押しのけ文庫化されてるあたり、岩波の業を感じさせます。

今日の名言

この世を挙げて一度は地獄と化す。そこから憤怒をもって立ちあがるものこそ、はじめて地上楽園の住人となりうるぞ。
キリスト教徒の本音、でしょうか。一度地獄に落とされた者の子孫としては複雑です。

『舞姫・うたかたの記』

 ぶっちゃけ龍騎のパ(ry。失礼作品が違いました。小ネタはさておき、興が乗らず更新一日サボっちゃいました。すいません。さて本日の感想森鴎外氏ですが、歴史好きや軍ヲタにとっては、脚気に苦しむ兵士たちを見殺しにした最低陸軍軍医総監としての方が有名ですが、近代文学黎明期の大家として名高く、今でも根強いファンも多いようです。しかし、個人的には舶来コンプレックスと権威主義の固まりな俗物、といった印象で好きでなかったのですが、この度食わず嫌いはよかるめえと、久しぶりに読み返してみました。結果、久しぶりに本を読む苦痛というものを思い出しました。なので全五編中表題作の二編で挫折してしまいました。調子に乗って次回予告なんてするんじゃなかった。というわけで今日の感想は悪口満載ですので、ファンと国語教師はスルーするのが吉です。それでは森鴎外舞姫うたかたの記岩波文庫(1981)以下ネタバレ注意

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

愛情と友情、非情

 神童と讃えられ、挫折を知らぬ主人公が異国の地で貧しい少女と恋に堕ち、それが元で一度はドロップアウトするが、友人と人物眼のある名士の引き立てにより、再び栄達の道を歩み始める。一度は愛した彼女を捨てて。
 とありがちなストーリーな「舞姫」ですが、時期的に見てこちらがアーキタイプなのでしょう。しかし、表現技法の十分に発達した現在の小説に慣れた目から見ると、構成の甘さや、心情描写の稚拙さが目立ちます。「雷電朝青龍もし戦わば」っていうこの類の論争は人類永遠のテーマなのでしょうが、そのジャンルの創世記の天才も現代で通用すると喧伝するのは、ジャンルそのもののレベルの底上げというものを無視した暴論なのではないでしょうか。そこいらは時代的に仕方ないと目を瞑るにせよ、無意味な横文字専門用語の羅列がインテリの厭らしさを引き立てます。少女エリスに対する視点も常に上からで、それに自己投射しているであろう作者の人格が伺われます。とどめにエリスに引導を渡す一番の汚れ役も友人に押し付けられ、自分は飽くまで被害者の立場を動こうとしません。「近代的自我」とはこのようにおぞましいもののことを言うのでしょうか。
 すみません熱くなりすぎました。クールダウンの為、登場人物の比定を少々。主人公を引き立てる天方大臣ですが、解説書によると内務大臣山県有朋伯爵(明治二十一(1888)年当時)*1だそうです。森はここで山県に見出され、陸軍軍医総監へまっしぐら、って筋書きなんですね。

うそつきな、唇

 「うたかたの記」鴎外の処女作です。基本的な感想は上述の通り。ただマリィのキャラクターが非常に魅力的なので「舞姫」よりは読みやすいです。マリィの独白部分は、美しい文語調の文章と相俟ってぐいぐいとこちらを惹きつけます。しかし、ラストが酷すぎます。伏線らしき伏線もなく唐突に無意味に訪れる悲劇は僕に決断する勇気を与えてくれました。自分は常々小説はまとまった構成よりも、個々の描写を優先して評価していたのですが、ここまで読後感を完膚なきまでに破壊してくれるラストシーンは初めてです。近代文学への過渡期だからしょうがないとは分かりつつも、これならまだ前近代の戯曲のようにデウス・エクス・マキナでも担ぎ出して強制終了してくれた方がまだありがたいです。

shining☆days

 最後に一応纏め。今まで散々けなしてきましたが文章は文語調の非常に綺麗な旋律で、声に出して読むには最高でしょう。しかし今回改めて思いましたが、文語文は近代小説と致命的に相性が悪いようです。言文一致運動が希求されたのも分かります。いままで馬鹿にしててごめんなさい。結論としては、文学史上一大転機をもたらした画期的な作品だというのは理解できますが、現代人それも文章に慣れてない若年層にこれを読ませるのは本離れを推進してるとしか思えないのですが、皆さんいかがお考えでしょう。文章作成の見本にするにも、この文体を現代口語と調和させるにはよほどの才能と知識が必要とされるのではないのでしょうか。真似する気にもなりませんが挑戦する人は頑張ってみてください。努力でどうこうできる領域じゃない気がしますが。結論としては、過去の亡霊はおとなしく研究対象で満足してて下さいといったものでしょうか。
 追伸:リベンジしたいので鴎外作品でこれは面白いというものがありましたらお教え下さい。もう自分で開拓する気力ないです。

今日の名言

 われを狂人と罵る美術家ら、おのれらが狂人ならぬを憂へこそすべきなれうたかたの記」よりマリィ=ハンスル
 日本人は有名人に倫理や常識など益体もないものを求めるので困ります

舞-HiME 1 [DVD]

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YouTube

*1:当初私は名前の類似から大蔵大臣(山県外遊中は内務大臣兼任)松方正義伯爵(当時)だと思ってました。音が似ているところから当時の有名人の名前の漢字を拝借しただけだったんですね

次回予告

森鴎外舞姫うたかたの記岩波文庫(1981)

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

舞姫・うたかたの記―他3篇 (岩波文庫 緑 6-0)

アップルのiMac G5欲しい!

『学問のす丶め』

 有名私大学祖シリーズ第二段、福沢諭吉『学問のす丶め』岩波文庫(1942)です。大隈や新島関連の著作を持ってないので、三段以降は多分ありません。さて、万札の肖像で有名な諭吉っつぁんですが、学問に挫折した私を見棄てたか、ちっとも傍にいてくれません。お金は寂しがりやってのは身に染みてますが、一葉さんにすら袖にされがちな昨今は世間の風が一層冷たく感じられます。閑話休題。100年以上も前に現在日本の窮状の最大の打開策「脱亜論」を遺してくれた福沢氏ですが、今になって読むと余りにも理想主義的な若々しい議論が、汚れちまった我々に新鮮な感動を与えてくれます。本人が女子供向けと言ってるように、言い回しは平易で、誤解を恐れぬ単純化した表現が読み物としての面白さを保証してくれます。いわゆる擬古文なので、最初はとっつきにくいでしょうが、頻出する二重否定にさえ慣れてしまえば、ストレスなく読めるのではないでしょうか。個人的な感想ですが、言文一致運動後の下手な小説よりは、文語文の方が理解もしやすい名文だと思います。、
それでは以降ネタバレ注意

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)

総論

 「天は人の上に人を造らず」この余りにも有名な一文で始まる『学問のす丶め』ですが、よくできた書物の例に漏れず、第一章が総論、後は各論及び補足といった体になってます(出版の形態上*1一章(1872)から十七章(1876)まで足掛け五年かかっているので、途中で明らかに変節したと思われる部分が何箇所かあります)。そこでいわれているのは、一見耳障りのいい万民平等論ですが、底を流れるのは、徹底した能力主義儒教の影響の色濃く残る職業差別です。「万民平等であるはずのこの世界で、身分に富貴のあるは、能力(学問)の不足から車夫や力役などの賤業しかこなせないものがいるからだ」これが洋学を礼賛し、儒漢国学を罵倒しながらも、その影響から抜け出しきれなかった諭吉の結論でしょう。彼は他にも「愚民の上に苛き政府あり」(大意:民度の低い国民を治めるには圧政を以てする以外に方法がない)などとも言っています。進歩的文化人のお歴々が扱いに困るはずです。

各論(ってゆーかまとまんなかった雑感想色々)

 世の全ての不幸の淵源は学問の不足にあるとでも言いたげな諭吉さんですが、慶応の学祖らしく、実学*2や交際をやたら推奨してます。なお福沢氏によると半端な学問しかしてないのに木っ端役人になるのは才能の浪費だそうですので、慶応生は公務員試験など間違っても受けてはなりません。採用枠を空けて下さい。
 洋学万能とでも言わんがばかりに儒・漢・国学を旧弊と罵倒してきた諭吉さんですが、後半(十五編(1876))では洋風万能の風潮に反駁して、西洋の蛮風(尿瓶・ハンカチ・コルセット・イヤリング・紙巻煙草・宗教戦争)を糾弾してます。口調の小気味いい名編の一つですが、今までの西洋万歳な態度は何処行ったのと言いたくなります。
 検閲官が自分の弟子だってことで、好き勝手書いてたら世間から大ブーイングを喰らい、新聞に変名で自分をかばう投書をして火消しに躍起になってます。いつの時代も調子に乗った筆禍事件てのはあるんですね。桑原桑原。
 最後に本論とは関係ないんですが、女大学が引用されてたので感想少々。「亭主は酒を飲み女郎に耽り妻を詈り子を叱りて放蕩淫乱を尽すも、婦人はこれに従い、この淫夫を天の如く敬い尊み」とありますが、江戸の男共はさぞかし虐げられてたのでしょう。うちの女房もこんなだったらいいなと妄想に耽るさまが目に浮かびます。更に文句を言うなではなく、「顔色を和らげ、悦ばしき言葉にてこれを異見すべし」とあるのがまた泣かせます。普段は怒鳴り飛ばされてたのをせめて嫌味に負けてくれんかとか弱い男は今日も嘆くのです。戦後女とストッキングは強くなったとお嘆きの諸兄、江戸の昔も今と変わらぬ嬶天下だったようです。あきらめましょう。

今日の一行知識

 福沢諭吉の好物はうなぎの蒲焼と茶碗蒸し
 「(もし西洋料理だったら)鰻の蒲焼、茶碗蒸に至っては世界第一美味の飛切りとて評判を得ることなるべし」まだそんなもん食ってんの?ださ。とかいわれたんでしょうね。悔しさが滲みます。

*1:各編を小冊子として、一章ずつ発行。ちなみに発行部数は海賊版込みで22万部(1880時点)だそうです。

*2:洋学万能の風潮に流されてか、神学や歴史学まで実学扱いしているのはご愛嬌です

『西園寺公望』

 日記がわりに毎日更新の当初の気概も空しく隔日更新がデフォになってきてしまいました。時間的余裕はともかく、執筆のモチベーションを保つのが以外にしんどいので、今後はこのペースが続くと思います。
 さて、今日の本は岩井忠熊『西園寺公望-最後の元老-』岩波新書(2004)です。この本、中に紙が一枚挟まっておりまして、それによるとこの本は去年の立命館の入学式で配られた*1もののようです。それが流れ流れて古本屋で\100のワゴンに投げられるんだから憐れなもんです。発行2年しかたってないのにこの有様ってことは相当数の人間が叩き売ったんでしょう、要反省です。しかし、この本は創立100周年事業で編纂されたハードカバー全六冊を無理やりペーパーバック1冊に編集し直した物らしく、説明不足+詰め込みすぎで非常に読みづらいです。1900年代前半の首相が全部そらで言える位でないとストレスなく読めないでしょう。かくゆう私も久しぶりに高校時代の日本史のノートを引っ張り出さざるをえませんでした。その割りに一般書にしては面白くないし、専門書にしてははしょりすぎだしと、スポンサーつきでかかれた本に手を出すなと再認識させられます。ただ第一次西園寺内閣から米内内閣までの成立と倒閣の事情はほぼ網羅してあるので、辞書代わりに使うと便利でしょう。
では以降ネタバレ注意

西園寺公望―最後の元老 (岩波新書)

西園寺公望―最後の元老 (岩波新書)

略歴

 悪口に夢中で肝心の本人に触れるの忘れてました。お馴染み日本史大辞典によると、

嘉永二(1849)〜昭和十五(1940)年。公家出身の政治家。最後の元老。京都生まれ。徳大寺公純の次男で西園寺家養子となる。戊辰戦争では会津を攻略。木戸孝允らと交流を深め、邸内に家塾立命館を創設。フランス留学中、パリ・コミューン事件に遭遇。帰国後、中江兆民らと「東洋自由新聞」を創刊。のち文相、枢密院議長を歴任し、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁となる。1906年、第一次西園寺内閣を組織、鉄道国有化など日露戦争後の政情に対応。桂太郎と交互に組閣し、「桂園時代」と呼ばれたが、第二次内閣で2個師団増設問題が起こり陸軍と対立して退陣、元老となる。19年、パリ講和会議全権を務め、牧野伸顕とともに対米英協調路線をとり、近衛文麿ら革新貴族と見解を異にした。翌年公爵。昭和天皇の摂政時代から後継首相の奏薦にあたり、ロンドン軍縮問題後は米英との乖離を危惧。牧野内大臣や一木喜徳郎宮内大臣とともに軍部や右翼の冒険主義に対抗。しかし満州事変や五・一五事件など、相次ぐ謀略やテロにより政党内閣の慣行を維持しえず、高齢を理由に任を辞した。陶庵と号し、興津坐漁荘に引退。国葬

だそうです。以上あらすじおわり。
 典型的なええとこのお公家さんのボンボンらしく、聡明博学で社交的で優柔不断と出世しやすい割りにトップに立つには致命的に器量が足りない、という果てしなくはた迷惑なスキルを持つ彼ですが、留学先では過激な共和主義者に師事し、中江兆民と仲良くなって、帰国後政道批判の新聞を立ち上げると若さに任せた情熱で結構無茶してます。親御さんはさぞかし胃が痛かったことでしょう。ほっとくと何するか分からんてことで参議院議官の職を斡旋され、そこで伊藤博文に拾われます。この伊藤博文の下にいた頃が彼の一番輝いていた時代でないでしょうか、病に倒れた陸奥宗光の代理として三国干渉や閔妃暗殺事件の後始末をし、教育勅語の改定をもくろんだりと、心なしか活き活きと活動してるように感じられます。おそらく誰か決断してくれる人の下でこそ輝ける才能だったのでしょう。そんな彼を担ぐしかなかったところに、20世紀前半の日本の不幸があったように感じます。伊藤博文が志半ばにハルピンで倒れ、その後を襲ってからは、挫折と妥協の人生が彼を待ってます。特に山県と松方に置いて逝かれて「最後の元老」となってからは暴走を始めた陸軍を掣肘できず、伊藤一派の悲願の英米との有効関係が踏みにじられて行くのを黙視するしかなくなっており、老残の哀れさが心をうちます。

備忘録:二十世紀前半総理の成立及び辞職の理由

  • 一次西園寺:桂からの禅譲社会主義者取締りの甘さを山県に憎まれ辞職
  • 二次桂:西園寺からの禅譲→陸軍2個師団増設計画の悪評を被るのを避けるため西園寺に禅譲
  • 二次西園寺:病気を理由に断るも押し付けられる→陸軍2個師団増設計画
  • 三次桂:西園寺が陸軍の横暴に切れて投げ出したため仕方なく→大正政変(内大臣から首相になったため宮中府中の別を乱すと糾弾)
  • 一次山本:(加藤高明[桂])*2西園寺の推薦→シーメンス事件
  • 二次大隈:(西園寺[松方])井上の推薦→大浦兼武の選挙干渉で引責辞任
  • 寺内:(加藤高明[大隈])山県の推薦→米騒動
  • 原:西園寺が自分がやるのを嫌がり推薦→東京駅にて暗殺
  • 高橋:西園寺が拒否、平田東助も政友会の衆議院での絶対多数を理由に拒絶、西園寺の推薦→政友会内部の内紛
  • 加藤友三郎:ワシントン会議での国際協調路線が西園寺らに気に入られ→病死(結核
  • 二次山本:西園寺と内大臣の協議(以後これが通例となる)→虎ノ門事件
  • 清浦:同上→第二次憲政擁護運動
  • 一次加藤高明:憲政会党首(政党内閣時代の始まり)→財政方針の違いから内閣不統一
  • 二次加藤高明:同上→議場で急死
  • 一次若槻:前首相急死のため臨時総理代理から昇格→金融恐慌
  • 田中義一:政友会党首→張作霖爆殺事件の処理方針を巡り天皇と対立
  • 浜口:民政党党首→統帥権干犯問題
  • 二次若槻:浜口が狙撃の傷が元で死亡したため繰上げ→十月事件の余波で挙国一致内閣論が高まり閣内不統一
  • 犬養:政友会党首→五・一五事件で暗殺
  • 斉藤:荒木陸軍大臣が政党内閣を拒否、西園寺が重臣会議を開き決定(以後通例に)→帝人事件
  • 岡田:(宇垣一成陸軍大将、加藤寛治海軍大将[平沼、皇道派])重臣会議→二・二六事件
  • 広田:近衛が拒否したため、一木枢密院議長の推薦→議会制度改革で政党と衝突-林:宇垣が陸軍天皇両者に反対され、次案の平沼も拒否したため(西園寺はこの頃元老引退を要請)→政党と対立
  • 一次近衛:林からの禅譲→盧溝橋事件(汪兆銘政権成立までは存続)
  • 平沼:近衛から禅譲独ソ不可侵条約(「欧州の情勢は誠に複雑怪奇なり」)
  • 阿部:陸軍推薦→米不足による国民の不満
  • 米内:(畑俊六陸軍大臣・杉山陸軍大将[陸軍])陸軍への対抗上海軍から選出→近衛主導の新体制運動
  • 二次近衛:自身の新体制運動の成功

 以上簡単に纏めると西園寺が真にキングメーカーたりえたのは桂園時代が終わって政党内閣が始まるまでといったところでしょうか。大正時代の終焉と歩調を合わすように生き残っていた元老の山県・松方が死に発言力が低下します。誰かに担がれるより、誰かに引っ張り上げてもらってこそ力を発揮できる政治家だったのでしょう。自分が政界の長老となってからは擁立しようとした候補を片っ端から軍部に反対され、最後の方は愚痴るだけになっています。元老の権力に法律的根拠がなかったなど、同情できる点は多々あるのですが、もう少しこの人に力があったなら、日本は無謀な聖戦に突入せずにすんだのではと思えてなりません。

今日の一行知識

 幕末から明治初期にかけて『孟子』は危険思想と見做されていた
 まったく理由が分かりません。心当たりの人はご一報を。

*1:立命館大学は明治2(1869)年に邸内に創設した家塾立命館を前身としている

*2:ライバル候補([]内は推薦人)以降同じ