脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『西園寺公望』

 日記がわりに毎日更新の当初の気概も空しく隔日更新がデフォになってきてしまいました。時間的余裕はともかく、執筆のモチベーションを保つのが以外にしんどいので、今後はこのペースが続くと思います。
 さて、今日の本は岩井忠熊『西園寺公望-最後の元老-』岩波新書(2004)です。この本、中に紙が一枚挟まっておりまして、それによるとこの本は去年の立命館の入学式で配られた*1もののようです。それが流れ流れて古本屋で\100のワゴンに投げられるんだから憐れなもんです。発行2年しかたってないのにこの有様ってことは相当数の人間が叩き売ったんでしょう、要反省です。しかし、この本は創立100周年事業で編纂されたハードカバー全六冊を無理やりペーパーバック1冊に編集し直した物らしく、説明不足+詰め込みすぎで非常に読みづらいです。1900年代前半の首相が全部そらで言える位でないとストレスなく読めないでしょう。かくゆう私も久しぶりに高校時代の日本史のノートを引っ張り出さざるをえませんでした。その割りに一般書にしては面白くないし、専門書にしてははしょりすぎだしと、スポンサーつきでかかれた本に手を出すなと再認識させられます。ただ第一次西園寺内閣から米内内閣までの成立と倒閣の事情はほぼ網羅してあるので、辞書代わりに使うと便利でしょう。
では以降ネタバレ注意

西園寺公望―最後の元老 (岩波新書)

西園寺公望―最後の元老 (岩波新書)

略歴

 悪口に夢中で肝心の本人に触れるの忘れてました。お馴染み日本史大辞典によると、

嘉永二(1849)〜昭和十五(1940)年。公家出身の政治家。最後の元老。京都生まれ。徳大寺公純の次男で西園寺家養子となる。戊辰戦争では会津を攻略。木戸孝允らと交流を深め、邸内に家塾立命館を創設。フランス留学中、パリ・コミューン事件に遭遇。帰国後、中江兆民らと「東洋自由新聞」を創刊。のち文相、枢密院議長を歴任し、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁となる。1906年、第一次西園寺内閣を組織、鉄道国有化など日露戦争後の政情に対応。桂太郎と交互に組閣し、「桂園時代」と呼ばれたが、第二次内閣で2個師団増設問題が起こり陸軍と対立して退陣、元老となる。19年、パリ講和会議全権を務め、牧野伸顕とともに対米英協調路線をとり、近衛文麿ら革新貴族と見解を異にした。翌年公爵。昭和天皇の摂政時代から後継首相の奏薦にあたり、ロンドン軍縮問題後は米英との乖離を危惧。牧野内大臣や一木喜徳郎宮内大臣とともに軍部や右翼の冒険主義に対抗。しかし満州事変や五・一五事件など、相次ぐ謀略やテロにより政党内閣の慣行を維持しえず、高齢を理由に任を辞した。陶庵と号し、興津坐漁荘に引退。国葬

だそうです。以上あらすじおわり。
 典型的なええとこのお公家さんのボンボンらしく、聡明博学で社交的で優柔不断と出世しやすい割りにトップに立つには致命的に器量が足りない、という果てしなくはた迷惑なスキルを持つ彼ですが、留学先では過激な共和主義者に師事し、中江兆民と仲良くなって、帰国後政道批判の新聞を立ち上げると若さに任せた情熱で結構無茶してます。親御さんはさぞかし胃が痛かったことでしょう。ほっとくと何するか分からんてことで参議院議官の職を斡旋され、そこで伊藤博文に拾われます。この伊藤博文の下にいた頃が彼の一番輝いていた時代でないでしょうか、病に倒れた陸奥宗光の代理として三国干渉や閔妃暗殺事件の後始末をし、教育勅語の改定をもくろんだりと、心なしか活き活きと活動してるように感じられます。おそらく誰か決断してくれる人の下でこそ輝ける才能だったのでしょう。そんな彼を担ぐしかなかったところに、20世紀前半の日本の不幸があったように感じます。伊藤博文が志半ばにハルピンで倒れ、その後を襲ってからは、挫折と妥協の人生が彼を待ってます。特に山県と松方に置いて逝かれて「最後の元老」となってからは暴走を始めた陸軍を掣肘できず、伊藤一派の悲願の英米との有効関係が踏みにじられて行くのを黙視するしかなくなっており、老残の哀れさが心をうちます。

備忘録:二十世紀前半総理の成立及び辞職の理由

  • 一次西園寺:桂からの禅譲社会主義者取締りの甘さを山県に憎まれ辞職
  • 二次桂:西園寺からの禅譲→陸軍2個師団増設計画の悪評を被るのを避けるため西園寺に禅譲
  • 二次西園寺:病気を理由に断るも押し付けられる→陸軍2個師団増設計画
  • 三次桂:西園寺が陸軍の横暴に切れて投げ出したため仕方なく→大正政変(内大臣から首相になったため宮中府中の別を乱すと糾弾)
  • 一次山本:(加藤高明[桂])*2西園寺の推薦→シーメンス事件
  • 二次大隈:(西園寺[松方])井上の推薦→大浦兼武の選挙干渉で引責辞任
  • 寺内:(加藤高明[大隈])山県の推薦→米騒動
  • 原:西園寺が自分がやるのを嫌がり推薦→東京駅にて暗殺
  • 高橋:西園寺が拒否、平田東助も政友会の衆議院での絶対多数を理由に拒絶、西園寺の推薦→政友会内部の内紛
  • 加藤友三郎:ワシントン会議での国際協調路線が西園寺らに気に入られ→病死(結核
  • 二次山本:西園寺と内大臣の協議(以後これが通例となる)→虎ノ門事件
  • 清浦:同上→第二次憲政擁護運動
  • 一次加藤高明:憲政会党首(政党内閣時代の始まり)→財政方針の違いから内閣不統一
  • 二次加藤高明:同上→議場で急死
  • 一次若槻:前首相急死のため臨時総理代理から昇格→金融恐慌
  • 田中義一:政友会党首→張作霖爆殺事件の処理方針を巡り天皇と対立
  • 浜口:民政党党首→統帥権干犯問題
  • 二次若槻:浜口が狙撃の傷が元で死亡したため繰上げ→十月事件の余波で挙国一致内閣論が高まり閣内不統一
  • 犬養:政友会党首→五・一五事件で暗殺
  • 斉藤:荒木陸軍大臣が政党内閣を拒否、西園寺が重臣会議を開き決定(以後通例に)→帝人事件
  • 岡田:(宇垣一成陸軍大将、加藤寛治海軍大将[平沼、皇道派])重臣会議→二・二六事件
  • 広田:近衛が拒否したため、一木枢密院議長の推薦→議会制度改革で政党と衝突-林:宇垣が陸軍天皇両者に反対され、次案の平沼も拒否したため(西園寺はこの頃元老引退を要請)→政党と対立
  • 一次近衛:林からの禅譲→盧溝橋事件(汪兆銘政権成立までは存続)
  • 平沼:近衛から禅譲独ソ不可侵条約(「欧州の情勢は誠に複雑怪奇なり」)
  • 阿部:陸軍推薦→米不足による国民の不満
  • 米内:(畑俊六陸軍大臣・杉山陸軍大将[陸軍])陸軍への対抗上海軍から選出→近衛主導の新体制運動
  • 二次近衛:自身の新体制運動の成功

 以上簡単に纏めると西園寺が真にキングメーカーたりえたのは桂園時代が終わって政党内閣が始まるまでといったところでしょうか。大正時代の終焉と歩調を合わすように生き残っていた元老の山県・松方が死に発言力が低下します。誰かに担がれるより、誰かに引っ張り上げてもらってこそ力を発揮できる政治家だったのでしょう。自分が政界の長老となってからは擁立しようとした候補を片っ端から軍部に反対され、最後の方は愚痴るだけになっています。元老の権力に法律的根拠がなかったなど、同情できる点は多々あるのですが、もう少しこの人に力があったなら、日本は無謀な聖戦に突入せずにすんだのではと思えてなりません。

今日の一行知識

 幕末から明治初期にかけて『孟子』は危険思想と見做されていた
 まったく理由が分かりません。心当たりの人はご一報を。

*1:立命館大学は明治2(1869)年に邸内に創設した家塾立命館を前身としている

*2:ライバル候補([]内は推薦人)以降同じ