【衝撃】市役所「市街地でクマを撃つ時は2mまで近づいて弱装弾で対処してね」:哲学ニュースnwk
現場を見ない机上の空論もここまで来たら清々しい。そう考えると浜田元議員の「ジャベリンと戦車を比較する記述は、いざとなれば、財務省職員自ら前線に赴き敵の戦車にジャベリンを打ち込むという決意の表れ若しくはジャベリンの使用訓練や前線に赴く義務の法制化に向けた立法府へのメッセージと解釈してよいか」の質問は秀逸だったなあと。文句があるなら自分でやれの精神は大事です。
ウマ娘の強制アプデによる大量のデータDLに長年寄り添った携帯が耐え切れず進行不可に。これを期に大人しく引退するか携帯買い換えるか悩み中です。携帯ショップ行くの無茶苦茶時間かかるしマジめんどいんだよなあ。
人はみな姿もかたちも違うけどひとつの太陽に照らされる
吉田兼好*1
弘安六(1283)?~観応元(1350)年。鎌倉末・南北朝期の歌人・随筆家・隠者。京都吉田神社社務職もしくは久我家の流れをひく堀川家の諸大夫であった卜部兼顕*2の子。大僧正慈遍*3・民部大輔卜部兼雄*4の兄弟。京都出身か。別名:卜部兼好・兼好法師。
19歳のころから後二条天皇*5のもとに出仕して蔵人、左兵衛佐となり、30代に入って出家遁世したらしい。すくなくとも2度、関東へ下向。洛北修学院・比叡山横川などに隠棲。のちに洛西双ヶ丘の麓に草庵をいとなんだ。1310-20年代に山城国山科の小野荘内に田地1段を所有したことが明らかである。和歌は二条為世*6に学び、頓阿*7・浄弁*8・慶運*9と並んで二条派の四天王と称された。48-9歳のころに著述した『徒然草』は『枕草子』『方丈記』とともに三大随筆の1つにあげられるだけでなく、同時代の思潮の特質をさぐる上で重要な作品。家集は『兼好法師集』。伊賀の国司橘成忠*10に招かれて行った田井荘で没したともいうが、たしかではない。『諸寺過去帳』の法金剛院の部に「観応元年四月八日、六十八歳死」とあり、これが生没年の通説の根拠となってきたが、ほかに観応3年8月28日付の、頓阿の跋文をともなう「後普光園院殿御百首」に兼好が加点している事実にもとづき、同年秋以後の没とみる考えが有力となっている。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)
かつて吉田兼好と呼ばれた偉人兼好法師の伝記。徒然草の内容やエピソードにほとんど触れずに兼好法師個人の事績を辿ることに専念しているストロングスタイルには拍手喝采。内容も吉田家に連なる一族の出身とされた通説がどれほど不合理なものであるかを徹底的に論難する硬派なもの。かなり厳密な史料の扱いで繰り広げられるその議論は体系的に中世史を学んでいてよかったと思える骨太さで大満足。「徒然草に記されなかった真実」ってサブタイトルから連想される陰謀論的なスペクタクルとは完全無欠に無縁ですのでそっちを期待された方はご愁傷様。という訳で、かなり歯ごたえはありますが鎌倉末期~南北朝初期の政治文化史の入門に最適な一冊だと思います。
踏まれて咲いても花は花
「古典の入門書は?」と問われればノータイムで徒然草と今昔物語と答えます。仏教系のやつほど抹香臭すぎもせず、軍記物ほど固有名詞が飛び交ったりしないんで読みやすいんですよね。平安時代や江戸時代のになると平和な時代が長すぎて文章が恐竜的進化遂げすぎててスラングだらけで何が何やら。崩れすぎてない適度な硬さの文章は初心者に最適です。古典入門に源氏物語や太平記から・・・なんてのは間違いなく自殺行為なので慎みましょう。
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*1:本文ママ
*2:治部少輔。父兼名。
*3:卜部兼清。法印。公尋に師事し天台宗を学ぶ。天台座主慈厳に仕え、南朝に協力。伊勢神道を受容し 天皇の権威付けに尽力。代表作:『旧事本紀玄義』・『豊葦原神風和記』・『天地神祇審鎮要記』他。
*5:第94代天皇。諱:邦治。父後宇多天皇、母西華門院。両統迭立の原則によりはとこの後伏見天皇より譲位されるも、上皇となれぬまま早逝。
*6:権大納言。正二位。父為氏、母飛鳥井教定女。南朝派の歌人として京極為兼と対立。頓阿・浄弁・兼好・慶運らの弟子に恵まれ、父から引き継いだ二条派の権威を確固たるものとした。代表作:『為世集』(家集)、『続千載和歌集』(撰)他。
*7:貞宗。父二階堂宗実。真観に師事し時宗を学ぶ。歌道では二条為世に師事し、二条良基の庇護下で二条派四天王に数えられる名人として活躍。代表作:『新拾遺和歌集』(撰)他。
*8:青蓮院別当。二条為世に師事し、尊円法親王の庇護下で二条派四天王に数えられる名人として活躍。代表作:『浄弁並慶運歌集』(家集)他。
*9:祇園別当目代。父浄弁。二条為世に師事し、二条派四天王に数えられる名人として活躍。代表作:『慶運法印集』・『浄弁並慶運集』(家集)他。
*10:伊賀守。

