脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『新訂 海舟座談』

ソフトバンクの通信障害でYahoo!リアルタイム上位20位をほぼ独占してしまう :哲学ニュースnwk
酷い目に遭った。取り敢えず苦情を言いに行ったら、ヘラヘラと「俺のせいじゃないもん」と顔に書いたまま応対しやがった、ソフトバンク葛西の男性店員は許さん。俺と入れ違いで、iPadで録画しながら乗り込んできてたアンちゃんがいたんで、どっかに実況動画でも流れてんじゃないでしょうか。docomoさんauさん乗り換えの優待プラン設定したら入れ食いですよ。


 宅地建物取引士試験無事合格。最近なんだか色々上手く行き過ぎてるので頓死に気を付けたいと思います。桑原桑原。


DQⅥ進捗

  • デスタムーアの島でレベル上げ中。主人公の職業:ドラゴン「レッサードラゴン」

国を憂い国を思うその名も男その名も男勝海舟

勝海舟
 文政六(1823)〜明治三十二('99)年。幕末・明治期の政治家。旗本勝左衛門太郎*1の長男。江戸本所亀沢町出身。諱:安芳、旧名:義邦、通称:麟太郎。
 少年時代に島田峴山*2に剣道を学び、さらに永井青崖*3について蘭学を修業し、西洋兵学・砲術を志し、苦学を続けながら次第に名をあげ、1850私塾を開いて蘭学兵学を教えた。'54大久保忠寛*4の推薦で海防意見書を幕府に提出、認められて'55蕃書翻訳係となる。さらに海軍伝習生として長崎に赴き、多くの新知識を得て'56江戸に帰り、軍艦操練所教師方頭取となる。'60日米修好通商条約批准のため、外国奉行新見正興*5らが渡米する際、咸臨丸艦長として乗組み、日本人最初の太平洋横断航海に成功。帰国後、蕃書調所頭取介、講武所砲術師範役、軍艦操練所頭取をへて軍艦奉行並となる。そのころ将軍徳川家茂*6の旨をうけ、神戸海軍操練所を設置し、広く幕臣以外の薩・長・土諸藩からも人材を集め、育成につとめた。'64海軍奉行となったが操練所の開放的方針が疑われ罷免、蟄居させられた。'66軍艦奉行に復活し、第2次長州征討においては幕府の全権使節として平和的交渉に努力した。鳥羽・伏見の戦いで幕府が敗れると将軍徳川慶喜*7の意をうけ官軍の参謀西郷隆盛*8と会見し、江戸城の平和的明け渡しに成功した。維新後しばらく徳川家達*9とともに駿府にいたが、'72新政府の海軍大輔、ついで参議兼海軍卿・伯爵、枢密顧問官となった。幕臣ではあったが、新政府にも入り、広い視野をもった人物であった。彼の編纂した史料集『吹塵録』『海軍歴史』『幕府始末』などは、貴重なものとして歴史研究に活用されている。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より修整引用)


 海舟翁最晩年の発言集。編者の巌本善治氏はかなり心酔していて贔屓の引き倒し見たくなってますが、これ大分もう耄碌しつつあるおじいちゃんの繰り言。『氷川清話』で見せた洒脱なユーモアも臓腑を抉る鋭い指摘も全く見られたものではありません。正直勝海舟ファンの人は読まない方が・・・。とは言え、豪快を自認していた勝が、人の収入を邪推したり、貸した金やあげた金にグチグチ言ってたりと、実に金銭的に細かい御仁だったのがよく分かったりと人となりはよく分かるのでそちらの興味がある方は是非どうぞご一読を。何をどう考えても知りたくなかった一面でしょうが。

春は桜木秋は菊大和心を染めて咲く

 アイドルはトイレに行かない!なんてのと一緒で、偉人やタレントの小市民的一面を見ると勝手に幻滅してしまうのもまぎれもない現実。このご時世謎めいた存在・・・なんてのは難しいですが、英雄伝に名を連ねる方には英雄なりの超越的な生き方をしてもらいたいものです。

山本譲二 ベスト & ベスト KB-9

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  • アーティスト:山本譲二
  • 発売日: 2008/07/01
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帰ってきた今日の一行知識

勝海舟は、咸臨丸で太平洋横断した際船酔いで欠片も役に立たなかった

地味にこの人も口だけ番長だよなあ。そこら辺正しく坂本龍馬の師匠なんですね

*1:惟寅。旗本。41石。父男谷忠恕、養父勝甚三郎。生涯無役の不良旗本として無頼の生涯を送った。代表作:『夢酔独言』(随筆)他。

*2:直親。直心陰流島田派師範。父親房。通称:虎之介。男谷信友らに師事し直心陰流の達人となり浅草新堀に道場を持った。その強さは幕末三剣士の一人と謳われた。

*3:福岡藩のお抱え蘭学者

*4:若年寄越中守。子爵。父忠尚。旧名:忠正、号:一翁。老中の阿部正弘に重用され、海防掛や蕃書調所頭取などの外交畑で累進するも、井伊直弼に疎まれ失脚。桜田門外の変復権し、松平春嶽開明諸侯との交流で滅びゆく幕府を支えた。

*5:外国奉行。伊勢守。父三浦義韶、養父新見正路。日米通商修好条約締結の正使として渡米し、大任を果たすも、帰国後は攘夷論の高まりに伴い逼塞、失意のまま病死。

*6:徳川第14代将軍。内大臣。父徳川斉順、母実成院、養父:徳川斉彊徳川家定。旧名:慶福。将軍継嗣問題の果てに、井伊直弼らに擁立され将軍就任。公武合体の方針を受け、和宮の降嫁を受けるも、生来の病弱から指導力を発揮することが出来ぬまま、第二次長州征伐の途上に陣没。

*7:徳川第15代将軍。内大臣。公爵。父水戸斉昭、母吉子女王、養父:一橋昌丸→徳川家茂。旧名:昭致。神君家康以来の英名を謳われ時期将軍に擬されるも将軍継嗣問題に敗北し、安政の大獄により失脚。桜田門外の変復権し、将軍後見職として雄藩との橋渡し役を担うも、将軍就任後は幕政改革の実が上がらぬまま、大政奉還に至る。鳥羽伏見の戦いでの敗戦後新政府に帰順し、駿河で余生を送った。

*8:参議。陸軍元帥。父吉兵衛隆盛、母(椎原)政佐。旧名:隆永、号:南洲。島津斉彬に重用され頭角を顕すも、久光に疎まれ失脚。盟友大久保利通の懇請により復権し、薩摩軍の大将として禁門の変・第一次長州征伐などで功を挙げ、事実上の新政府軍の総大将となり、鳥羽伏見の戦いの勝利や江戸城無血開城を主導し、維新の三傑に数えられた。新政府でも重職を歴任し、廃藩置県などの諸改革を実現にこぎつけるも、征韓論が糾弾され明治六年の政変で失脚下野。不平士族を糾合し、西南戦争を引き起こすも敗死

*9:第4-8代貴族院議長。公爵。父田安慶頼、母(高井)武子、養父:田安寿千代→徳川慶喜徳川慶喜の失脚に伴い徳川宗家の家督を襲名。貴族院議長やワシントン軍縮会議全権などの名誉職を歴任した。