脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

有栖川宮記念公園

かっこいい死に方をした歴史上の人物:哲学ニュースnwk
柴田勝家*1丹羽長秀*2千利休*3の秀吉への当てつけ切腹三人衆を推します。


 今年も富岡八幡宮に熊手を買いに。来年こそはもっと大きなの買えるようになってますように。


競馬成績・・・H30収支-41490

姦しまやかしお伽の国で兎の背中を追いかけていた

有栖川宮記念公園
 この地は江戸時代、旧盛岡藩主南部美濃守*4下屋敷でしたが、1896有栖川宮御用地となり、更に1913高松宮御用地となりました。その後、児童の自然教育および健康に格別の関心をもたれた高松宮殿下*5が'34.1.5故有栖川威仁親王*6の御命日にちなんで御用地約11,000坪(36,325?)を公園地として贈与され、当時の東京市は直ちに工事を進め、'34.11.17有栖川宮記念公園命名し開園したものです。 
 本園は都心にはまれな閑雅な地であり、丘陵から渓谷を下り池畔に至る地形の変化と、うっそうとした樹木など日本古来の林泉式の修景により、高雅な自然趣味の庭園となっております。またウメやサクラ、ハナミズキなどをはじめとして四季折々の花も多く、秋にはカエデやモミジの紅葉も楽しむことができます。
 また、園内の広場には本園にゆかりの深い故有栖川熾仁親王*7
 なお、現在は麻布野球場と庭球場編入し、本園の総面積は67,131?です。
(現地案内板より引用)


 業務上の都合で港区の実地調査のついでがあったので、有栖川記念公園へ。最寄りの広尾駅に降り立った瞬間感じるセレブな雰囲気に心折られながらも公園へ。道すがらランチでも・・・と思ってたんですが、あまりの敷居の高さに断念。門前にギャルソンが立ってた店なんかちらりと見えたメニュー表の値段\15,000って見えたのは多分気のせいでしょう。正直すれ違う人の4割近くが白人っていうのは、外国童貞の私にはちょっとした恐怖でした。
 そんな小市民の場違い感を除けば、辿り着いた公園は適度な起伏とバラエティ豊かな植栽に森閑としたという言葉のよく似合う雰囲気にと散策には最適な環境。ふつうこういった公園には掃いて捨てるほどいる野良猫やホームレスが絶無だったのも特筆もの。三島の小説なんかによく出てくる「ちょっと庭を散歩しながら・・・」なんていうシチュエーションはこんなロケーションで行われていたんだろうと想像させてくれます。我々一般庶民には想像もつかぬ貴顕の世界、ちょっとのぞき見がてら混じってみるのはいかがですか。

実を言うならそんなこと知ってんだとかくわたしは疲れ果てたんだ

 なんて書きましたが、私を含めた物見遊山の観光客と普段使いの地の人との違いは一目瞭然。ファッションど素人の自分でもわかるレベルで着てるものの生地が違い過ぎる。明らかにいいベベ着て無邪気に遊ぶ子供たちを見ながら、こうやって階級社会は築かれていくんだなあと実感した一日でした。

BOOTLEG

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帰ってきた今日の一行知識

公園の起こりは市民権運動の高まりにより王侯貴族の狩猟地を一般人に開放したもの
それで遊歩道や広場など犬の散歩に適した作りになってんですね。

*1:賤ケ岳の戦いに敗北し、秀吉軍に囲まれた居城北ノ庄城の天守閣の欄干で「後代の見本にせよ」と吠えて切腹

*2:胃癌の末期症状で死亡寸前に「自分を殺した下手人はこいつだ」と腫瘍を抉り出して秀吉に送り届ける

*3:最期の茶会を一人厳かに遂行したのち、秀吉が一番欲しがっていた茶釜に掻き出した腸を投げ込んで絶命

*4:利剛。陸奥盛岡藩第15代藩主。父利済、母(楢山)烈子、養父:信誉→利義。旧名:謹敦。兄利義と父利済の対立により藩主襲名。その性急な改革により第二次三閉伊一揆を招くなどしながらも無難な治世を送る。幕末には奥羽越列藩同盟に参加したため隠居を余儀なくされた。

*5:宣仁親王。日仏会館総裁。海軍大佐、大勲位功四級。父大正天皇、母貞明皇后昭和天皇の弟宮として海軍で累進。昭和維新を標榜する少壮軍人らに共鳴し、昭和天皇からは開戦派と疎まれた。

*6:帝国海事協会初代総裁。海軍元帥、大勲位功三級。父幟仁親王、母(森)則子。兄熾仁親王に子がなかったため、有栖川宮家を継承。海軍に勤務し皇族将校として要職を歴任した。

*7:第2代兵部卿。陸軍大将、大勲位功二級。父幟仁親王、母(佐伯)祐子。尊攘派皇族としての活動を疎まれ禁門の変で失脚。王政復古の大号令で総裁職として復権戊辰戦争では東征大総督として活躍。維新後も陸軍の重鎮として君臨した。