脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『啓発録』

カーリー・クロスが謝罪、撮影で日本人女性の格好 : 【2ch】コピペ情報局
我々イエローモンキーには白人様の高尚なお考えは全く理解できません。


 最近声高に叫びたくて仕方ない広島弁が一つ、曰く「カバチたれんな」。みんな、糞の役にも立たない能書きや絵図考える暇あるなら、取りあえず行動起こそうよ。

啓発録 (講談社学術文庫)

啓発録 (講談社学術文庫)

遠い夢すてきれずに故郷をすてた

橋本左内
 天保五(1834)〜安政六('59)年。幕末期の志士。福井藩医橋本長綱の子。諱:弘道→綱紀、字:伯綱、号:景岳・黎園、変名:桃井伊織。
 1849大坂に出て緒方洪庵*1適塾に学び洋学及び医学を習得。'52家督を継ぎ藩医となる。'54江戸遊学を命ぜられ、藤田東湖*2西郷隆盛*3らとも交わる。藩主松平慶永*4に認められ、'57中根雪江*5由利公正*6らとともに藩政改革の中心になる。横井小楠*7を政治顧問として招き、その重商主義的な富国強兵論に基づき開国貿易・殖産興業・軍備強化など絶対主義的な方向を目ざして藩政改革を行った。将軍継嗣問題が起ると、藩主の意をうけ、一橋慶喜*8の擁立運動のため上洛。青蓮院宮*9三条実万*10鷹司政通*11らの公卿や諸大夫に出入りし説得に全力をあげたが、'58井伊直弼*12大老就任によって失敗し、ひきつづき幕府の大弾圧によって藩主松平慶永も隠居謹慎を命ぜられ、左内も捕えられた。'59江戸伝馬町の獄に送られて斬られた。近代国家の展望に基づくもっとも開明的な思想をもった人材として知られる。'91贈正四位。(『コンサイス日本人名事典 第5版』より引用)


 越前の誇る偉人橋本景岳先生の著作及び書簡集。論理明晰文旨鮮明の名文の鑑のような文章。正直このまま国語の教科書に載せてもいいんじゃないかと思えるレベル。内容も激烈な檄文であるにかかわらず、底を流れる論理は明快かつ先進的で、熱烈な信者が続出するのも納得。正直『啓発録』は景岳先生十五歳の時の小著〜って序文に驚愕いたしました。生まれ変わったら自分もこれくらいの文章力を手に入れたいものです。

別離より哀しみより憧憬はつよく

 橋本左内安政の大獄で夭折したのは弱冠25歳。当時絶賛ニート生活を満喫中だった25歳の私はその事実に絶望したものでした。最近は、才能迸る若き天才の煌めきに嫉妬ではなく眩しさを憶えるようになってきた辺り、私も歳をとったってことなんでしょう。

サライ

サライ

帰って来た今日の一行知識

自己啓発と洗脳に本質的な違いはない
意識高い系の皆様が平気で「ブレインウォッシュ」って用語を平然と乱発しているのを見ると慄然とします。ニューエイジブームの頃のアメリカやバブル期の日本で散々ひどい目に遭ってるはずなんですが、人間って学習しないもんですね。

*1:惟章。足守藩士。父佐伯瀬左衛門。江戸長崎にて蘭学医学を学び、大坂にて適塾を開き、後身を育てた。主な弟子に福沢諭吉大村益次郎橋本左内ら。

*2:彪。海岸防禦御用掛。水戸藩士。父幽谷、母(丹)梅子。水戸学を大成し、藩主斉昭の側近として活躍、「水戸の三田」の一角に数えられる。ペリー来航後、その思想と政策は志士らに大きな影響を与えるも、安政の大地震により横死。代表作:『正気の歌』、『回天詩史』、『常陸帯』他。

*3:参議。陸軍大将。父吉兵衛。旧名:隆永。斉彬の知遇を得て累進も、次代の久光には疎まれ逼塞。盟友の大久保らの奔走により藩政復帰後は薩軍を率い禁門の変や第一次長州征伐などで活躍。薩長同盟後は新政府軍の大将格として戊辰戦争に勝利。維新の三傑の名を不動のものとする。しかし、新政府では不遇で明治六年の政変で失脚下野後、不平士族の旗頭として蜂起。西南の役を招き敗死。

*4:越前福井藩第16代藩主。権中納言。父田安斉匡、母青松院、養父松平斉善。号:春嶽。一橋派の中心として活躍するも安政の大獄により失脚。復帰後は政治総裁職に就任し、公武合体を推進。その敏腕と明晰から「幕末四賢侯」の一人に数えられた。明治維新後も民部卿・大蔵卿などの重職を歴任。

*5:師質。福井藩側用人。父衆諧。春嶽に重用され、その参謀として藩政改革および公武合体運動に尽力した。

*6:東京府第4代知事。子爵。父三岡義知。横井小楠に師事し、福井藩の財政改革に尽力。新政府でも、五箇条の御誓文の起草や太政官札の発行などに辣腕を揮うも、その急進的財政方針が憎まれ下野。その後は、岩倉遣欧使節団の随行民撰議院設立建白書への署名などでも活躍した。

*7:時存。福井藩政治顧問。従四位下。肥後実存党を結成し、熊本藩の藩政改革を試みるも失敗。逼塞中に松平春嶽に招かれ、藩政改革および公武合体運動に尽力するも、福井藩の政変に巻き込まれ失脚。新政府では参与として招かれるも、旧尊攘派により暗殺。代表作:『国是三論』他。

*8:徳川。江戸幕府第15代将軍。内大臣。父水戸斉昭、母吉子女王、養父一橋昌丸→徳川家茂。家康の再来と謳われた英明により早くから将軍職に擬せられるも井伊直弼大老就任により失脚頓挫。桜田門外の変後は家茂の後見職として公武合体に尽力。家茂死後待望の将軍職に就任するも時勢には抗えず大政奉還に至った。

*9:久邇宮朝彦親王。第228世天台座主弾正尹。父伏見宮邦家親王、母(鳥居小路)信子。旧名:成憲、法諱:尊応→尊融。一橋派として青蓮院門主ながらも積極的に政治関与、安政の大獄連座し青蓮院門跡は廃されるも桜田門外の変復権公武合体派公卿の中心として八月十八日の政変を主導するも、小御所会議により失脚。

*10:内大臣従一位。父公修、母一条輝良女。武家伝奏として幕府との交渉に尽力。日米修好通商条約の勅許に反対した為、安政の大獄連座し失脚。

*11:関白。従一位。父政煕、母(蜂須賀)儀子。文政年間から安政年間まで30年以上異例の長期に亘り関白を勤める。関白引退後も孝明天皇の信任厚く内覧を許され朝政に隠然たる勢力を揮うも、攘夷派としての姿勢を幕府に憎まれ失脚。

*12:近江彦根藩第15代藩主。左近衛権中将。父直中、母お富の方、養父直亮。兄の早逝により家督継承。南紀派の筆頭として大老となり、家茂を将軍に推戴し、日米修好通商条約の締結や安政の大獄などを断行するも、桜田門外の変にて横死。