脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『天皇Ⅲ〜二・二六事件』

止まらない「雑誌離れ」、41年ぶり書籍下回る 揺らぐ書店の屋台骨 : SIerブログ
完全にスマホの所為。雑誌の唯一の存在意義たる時間つぶしに於いて全く勝てるところがありませんもんね。


 当法人の新規事業で便利屋開業の運びに。店名公募で「ユービック」を推して*1結構いいところまで行ったんですが惜しくも落選。上手くいけば隠れSF者発見器になれると思ったんだけどなあ。


競馬進捗・・・H28収支-20920

天皇 3 二・二六事件 (文春文庫 141-10)

天皇 3 二・二六事件 (文春文庫 141-10)

怖れることを知らないそれが勇気ではなく

昭和天皇
 明治三十四(1901)〜昭和六十四('89)年。
 皇太子明宮嘉仁(後の大正天皇*2、皇太子妃節子(後の貞明皇后*3の第1皇子として生まれる。祖父明治天皇*4は中国の『書経』から採って廸宮裕仁親王と名付けた。生後70日で元・参議海軍卿、当時は枢密顧問官だった川村純義*5のもとに預けられ、1歳2ヵ月違いの弟宮秩父宮*6とともに、川村が死去する3歳まで川村家ですごす。1908学習院初等科に入学、乃木希典院長*7質実剛健にふれ、'12明治天皇死去の際には、『中朝事実』を手渡されている。初等科卒業後は東宮御学問所で学ぶ。'21.2御学問所修了後、ヨーロッパを視察、英国王室と親しく交わり、終生にわたる親英的な肌合いを身につけた。のちに記者会見('70.9.16)で「私のそれまでの生活がカゴの鳥のような生活でしたが、外国に行って自由を味わうことができました」と振り返っている。帰国直後の'21.11父大正天皇病気のため摂政となる。'23.12議会開院式にむかう折り大杉栄*8の影響を受けた難波大助*9にステッキ銃で狙撃されるが難をきりぬけた(虎の門事件)。'24.1久邇宮良子女王*10と結婚。'25.12.25大正天皇の死去で第124代天皇となる。25歳8ヵ月であった。元号は「百姓昭明、万邦協和」から採って昭和と改まった。大日本帝国憲法下の統治権統帥権の総攬者として君臨することになった。
 昭和は陸軍の膨張政策と政党の無力で始まり、'31満州事変で日本の中国大陸への侵略が深まった。'36二・二六事件では天皇は激怒し鎮圧を命じ、自らその先頭に立つとの意志も示した。'37.7日中戦争は陸軍の拡大方針に必ずしも賛成ではなかったが、近衛内閣の戦争継続政策を追認していった。'41.10東条内閣の成立に同意、日米戦争には不安を表明したが、開戦を防ぐ決定的な役割は果たせず、日本は対米開戦の道を進んだ。'45.8米国の原爆投下、ソ連の参戦で天皇は御前会議の席上、阿南惟幾陸相*11らの戦争継続案をしりぞけ、ポツダム宣言受諾を主張する東郷茂徳外相*12らを支持。そして、'45.8.15「朕深ク世界ノ大勢ト……」で始まる玉音放送で戦争終結を国民に伝えた。
 米国の占領下となった'45.9.27連合国最高司令官マッカーサー*13を訪ね会見、胸をそらす大柄なマッカーサーと並び立つ天皇の写真は国民にショックを与えた。'46.1.1天皇は「現人神」から「人間」宣言を行い、背広姿・ソフト帽の"人間"として戦後巡幸を始める。'47.5.3日本国憲法発布で、天皇は新たに「国民統合の象徴」と位置づけられるようになった。講和条約発効までにつごう3回、戦争責任を退位というかたちであらわしたいとの意志をもらしたが、側近の忠告でとりやめている。のち'71.9-10ヨーロッパ、'75.10アメリカを皇后とともに訪れるなど皇室外交に専心。'87.9慢性すい炎で入院、手術を受ける。一時退院して公的行事に出席するが、'88.9.19再び倒れた。同夜から連日連夜、マスコミは天皇の体温・血圧等を報道する。有名歌手*14が結婚を延期するなど"理由なき理由"の自粛ムードが広がった。皇居前には病状回復を願う国民が記帳に詰めかけた。その一方、アジアそしてイギリス、オーストラリアの一部のメディアは、天皇の戦争責任を厳しく問うた。'89.1.7am6:33死去。正式な病名は「十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)」。本人も押し相撲が得意であったように相撲を愛した。生物学者として『相模湾産ヒドロ虫類』など8冊の著書がある。(『現代日本 朝日人物事典』より引用)


 昭和十年秋の陸軍大演習からノモンハン事件を描くシリーズ昭和天皇記。二・二六事件、盧溝橋事件・徐州作戦・汪兆銘工作・ノモンハン事件と風雲まさに急を告げ、雲行きが漸く大惨事のワルプルギスの夜の予感を漂わせ始め、龍顔は憂いに曇りっぱなしです。標題の二・二六事件でこそ獅子吼にて事態収拾の立役者になりましたが、それ以降は完全無欠のツンボ桟敷。正直昭和天皇の伝記の体裁をとる必要があるのかすら怪しく・・・。そんなタイトル詐欺さえ無視すれば、太平洋戦争突入直前のきな臭い世相を追体験できる名著です。

諦めることに慣れないで立ち向かえ!

 日本における最高権力者の悲哀をつくづく感じさせる一冊でした。この惨状見てると、日本においては、ワンマン経営のできる中小零細の以外では欧米流のトップダウン方式の経営なんて夢のまた夢だよなあと改めて。コンサルの皆さんは舶来の横文字を意味も分からず並べ立てるだけでなく、和魂洋才の実務を模索して欲しいものです。

ルクセンダルク小紀行 (初回限定盤)

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帰って来た今日の一行知識

二・二六のクーデターが成功していたら、帝国陸軍対帝国海軍の内乱が勃発していた
海軍出身の斎藤実鈴木貫太郎が襲撃に遭ったのもあって怒り心頭。長門を筆頭とする連合艦隊東京湾に集結させて一触即発の構え。長門の主砲が国会議事堂を照準に入れていたというんだから肝が冷えます。つーか、お前らもつい最近五・一五で大暴れしたばっかじゃんかよう。

*1:ユビキタスの語源の『ubique』の英語形」というのが表向きの由来

*2:第123代天皇。諱は嘉仁。父明治天皇、母柳原愛子。明治大帝の後を襲い即位するも生来の精薄と病弱により先帝の様な指導力は発揮できなかったが、その治世下では大正デモクラシーが花開いた。

*3:九条道孝、母(野間)幾子。子に昭和天皇秩父宮雍仁親王高松宮宣仁親王三笠宮崇仁親王

*4:第122代天皇。諱は睦仁。父孝明天皇、母中山慶子。父孝明天皇の急死に伴い、薩長に擁立され即位。明治維新を断行し文明開化富国強兵を実現し、日清日露の両役に勝利し、日本を列強へと導いた。

*5:第2・4代海軍卿。海軍大将。伯爵。戊辰戦争で頭角を顕し、維新後海軍畑で累進。退役後枢密顧問官となり、のちの昭和天皇の養育係としても活躍した。

*6:雍仁親王大本営戦争指導班参謀。陸軍少将。父大正天皇、母貞明皇后。陸軍にて軍務に従事。その際皇道派に感化され、皇族一の主戦派として陸軍の宮中工作に活用された。

*7:第3代台湾総督。陸軍大将。伯爵。父希次、母(長谷川)寿子。長州陸軍閥の一員として累進。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻略に失敗するも、水師営の会見で一躍英雄となる。戦後は学習院初代院長として後進育成に尽力するも、明治大帝に殉死。

*8:父東、母とよ。『万朝報』に感化され、社会主義者に転向。アナーキストとして一世を風靡するも甘粕事件にて横死。

*9:父作之進、母ロク。アナーキズムに傾倒し、甘粕事件や亀戸事件に義憤を滾らせ虎ノ門事件を起こし、逮捕死刑。

*10:香淳皇后。父邦彦王、母(島津)俔子。子に東久邇成子、祐子内親王、鷹司和子、池田厚子今上天皇常陸宮正仁親王島津貴子

*11:鈴木貫太郎内閣陸軍大臣。陸軍大将。父尚。陸軍で累進。大東亜戦争では長沙作戦を失敗させるも失脚には至らず、鈴木終戦内閣にて陸相就任。本土決戦論を強く主張するも御前会議にて敗れ失意のまま自殺。

*12:東條内閣外務大臣。父朴寿勝。外交官として累進。東条内閣にて外相を務め日米交渉に尽力するも開戦は避けられなかった。鈴木終戦内閣で再度外相に就任し、ポツダム宣言受諾に主導的な役割を果たした。戦後、開戦時の外相であったことからA級戦犯に指定され獄死。

*13:Douglas MacArthur。連合国最高司令官。陸軍元帥。父アーサー・マッカーサー・ジュニア、母メアリー・ピンクニー・ハーディ。ウェストポイント士官学校空前絶後の好成績で卒業後、陸軍で累進、フィリピンに「マッカーサー王国」とも揶揄される一大勢力を築くも大東亜戦争にて崩壊。戦後、GHQ長官として日本占領政策に辣腕を揮い、一時は大統領候補にも擬せられるも、朝鮮戦争にて中国との全面戦争を誘発しかねない戦争遂行方針をトルーマンに憎まれ失脚。

*14:五木ひろし。五木プロモーション所属。代表作:「よこはま・たそがれ」、「千曲川」、「九頭竜川」他。