脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『人物叢書 清沢満之』

痛いニュース(ノ∀`) : ブタはチンパンジーやイルカ並みに高い知能…食肉用動物としての扱いを再考する必要がある - ライブドアブログ
全ての命に感謝して・・・いただきます。


 45月サボりまくったシワ寄せか、6月後半が忘年会シーズン並みの飲み会祭りになることが決定。頑張れ俺の肝臓。


艦これ進捗

  • 海上護衛戦」クリア。第一艦隊旗艦:最上改。

SRWZⅢ天獄篇進捗

清沢満之 (人物叢書)

清沢満之 (人物叢書)

ゆきかひしいのちのなやみ

清沢満之
 文久三(1863)〜明治三十六(1903)年。明治時代の真宗大谷派の僧。徳永永則*1の子。三河国大浜西方寺清沢氏の養子。尾張国名古屋黒門町*2出身。東京大学文学部哲学科卒業。
 一高・哲学館*3の講師をへて1888真宗大谷派の中学校長となり、高倉学寮でも教鞭をとる。近代社会に対応するために東本願寺の財政・組織の改革を主張した白川党に加わって活動したが、'97除名されて挫折。'99東京に出て新法主大谷光演*4の補導にあたり、また東京に移転した真宗大学学長となる。1900浩々洞を開き、'01雑誌『精神界』を発刊し、佐々木月樵*5たちと精神主義運動を展開した。彼の精神主義は、絶対無限の如来に対する徹底した他力主義、主観主義的な主客合一の信念、実践の重視などを内容としており、真宗における「信」を契機として信仰の個人化・内面化を深め、近代的な自我を確立することによって仏教を近代化することをめざしたものであった。教団内部にはあまり影響力をもたなかったが、西田哲学を始めとして、思想界全般に大きな影響を与えた。(『コンサイス日本人名事典 改訂新版』より引用)

 大谷大学の校祖にして鈴木大拙らに大きな影響を与えた真宗大谷派近代化の功労者。らしいんですがぶっちゃけ全く知りませんでした。内容は正直愚にもつかない神学論争を延々と聞かされてるだけでかなり退屈。世俗の事跡は正直ほぼ皆無に等しい「敗北者」な上、キャラクターとしても清貧を地で行くお方なので、膨らますべきエピソードも殆どないという体たらく。ついでに言えば、やろうとしていたことも、日本古来の民俗学的宗教を西洋かぶれで神学的宗教に無理矢理翻案という、一種の文化的虐殺に過ぎないので、反グローバリズムの旗印を掲ぐべき現代においては正直弁護の余地もないところでしょうか。もう一周回って今のジャパニズムブームが、唾棄すべきアンシャンレジームになるころには、また再評価されるべき気運が訪れるのではないでしょうか。

白道はいやせまくともためらはめやは

 盆暮れ正月に墓参りして*6、法事で坊さんの退屈なお講和に欠伸をかみ殺しつつ、精進落しの会食で親戚と旧交を温める。不真面目な真宗教徒としては、宗教にそれ以上の事は期待していません。個人的には日本人に経典の民が思い描くような「宗教」は不要だと思います。誰が始めたかも分からない謎の風習を面倒臭えってぼやきながらだらだらこなす。それ以上のことを宗教に必要とするほど、日本は「文明」ではないと信じます。

帰って来た今日の一行知識

清沢満之を「再発見」したのは司馬遼太郎

またお前か。

*1:尾張藩足軽頭。父忠左衛門、母おとよ。旧名:重則。

*2:現愛知県名古屋市東区

*3:東洋大学

*4:東本願寺第23代法主。伯爵。父現如。法名:彰如。若くして大谷派のトップとなるも鉱山経営の失敗により失脚。ホトトギス派の文人としても活躍。

*5:大谷大学第3代学長。清沢満之に師事し『精神会』を主宰。大谷大学の興隆に尽力した。

*6:最近大分サボってますが