脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『聖徳太子Ⅰ〜仏教の勝利』

痛いニュース(ノ∀`) : 鳩山元首相が沖縄県知事選挙への出馬を検討 - ライブドアブログ
その心の強さだけは称賛します。よくもまあ自分の政治生命がぽっきり折れた場所にのこのこリベンジに行く気になれるな。


 郵便受けの迷惑チラシの山の回収をしばらくサボってたら、大家に郵便物ごと捨てられた・・・。ポスティングって迷惑極まりない行為だったんですね。反省。


SRWZⅢ時獄篇

艦これ進捗

  • 「索敵機、発艦せよ!」ポートワイン沖海域港湾棲姫と交戦中。第一艦隊旗艦:赤城改。

わけもなく君が消えそうな気持ちになる

聖徳太子
 敏達三(574)〜推古三十(622)年。推古朝の摂政。用明天皇*1の皇子、母は穴穂部間人皇女*2。本名:厩戸豊聡耳皇子、通称:上宮太子
 母が馬屋の前に至った時出産したというので厩戸の名がある。587蘇我馬子*3と共に物部守屋*4を討つ。'93女帝推古天皇*5の即位と同時に皇太子となり、女帝を補佐して摂政となり大臣蘇我馬子と並んで政務をとる。中央集権化と官司制の基礎を作ったが、603冠位十二階の制定、'04憲法十七条の制定はその主な事業とされる。5世紀以来絶えていた中国との国交を開き、'07小野妹子*6を遣隋使として派遣するなど、数次に亙って使を送る。それに従った留学生・留学僧による大陸文化導入の役割は大きい。馬子と共に歴史書の編纂も計画し、『天皇記』『国記』などを纏めた。朝鮮渡来文化との関わりも深い。'01新羅征討の計画は将軍来目皇子*7の病没の為に中止された。その事業の多くは馬子との共同であり、馬子の功績となるものも多いと考えられている。もう一つの功績とされるものは仏法興隆である。四天王寺法隆寺法起寺中宮寺等は太子の発願によって建立されたと伝える他、元興寺金堂の丈六像を造立し、秦河勝*8に仏像を授けて蜂岡寺(広隆寺)を造らせた。経典の研究も自ら行い、'06岡本宮天皇法華経などを講じたという。『三経義疏』はその著作と伝えられるが異論もある。'22斑鳩宮で没した。法隆寺金堂釈迦三尊像中宮寺天寿国繍帳はその銘に太子の菩提の為に造立されたことを記す。太子の伝記は早くから神格化され、唐の高僧の生まれ替わりといった伝説化や太子信仰が形作られた。(『コンサイス日本人名事典 改訂版』より引用)

 冒険的古代史解釈の泰斗梅原猛氏が法隆寺に続き、今度は聖徳太子本体の新解釈を試みた野心的なシリーズ。第一巻に当たる本巻は仏教伝来から新羅征伐まで。日本の仏教受容の過程を当時の極東アジア情勢に絡めて詳述しています。その為本巻では主人公たるべき厩戸皇子の出番は殆どなく、朝鮮半島情勢が事実上の主題となっており、正直ちょっと興味が湧きづらいものが。蘇我馬子物部守屋の、穴穂部皇子を巻き込んだどろどろの主導権争いはとても面白いので、次巻以降物語のメインフィールドが日本に移ってくれたらもっと楽しめるのではないかと思います。
 以上梅原氏の他の著作と同じく多種多様な豊富な文献引用で冒険的な解釈に無理やり説得力を持たせる力技は健在で、読んでて非常に心地の良い疲労を覚える大作なので、気力横溢の万全の体制で取り組んでみてください。

君の名前は優しさくらいよくあるけれど

 最近頓にブームの兆しを見せる「聖徳太子非実在説」。言いたいことは分からないのでは無いのですが、「楠木正成悪党説」と同じような政治的バイアスを感じてどうも好きになりません。いくら学問が世の風潮とは無縁ではいられないとは言え、せめて流れに掉さすような下種な人種にだけはなりたくないものです。一度は夢見て挫折した道だからこそ苦言を呈します。学者はいつの世も孤高の道化師であってください。

はじまりはいつも雨

はじまりはいつも雨

帰って来た今日の一行知識

仏教は本来偶像崇拝禁止
西南アジアあたりでギリシャ文化と混淆起こしていつの間にか仏像濫造が始まったようです。いつの日かイスラムもアラー像とかできたりするんでしょうか。見てみたいなあ。

*1:第31代天皇。諱は橘豊日尊。父欽明天皇、母蘇我堅塩媛。崇仏廃仏の争いに巻き込まれ、即位後二年で死去。

*2:用明天皇皇后。父欽明天皇、母蘇我小姉君。夫用明天皇→多米王。子に聖徳太子来目皇子殖栗皇子茨田皇子、佐富女王。

*3:大臣。父稲目。孫に入鹿。通称:「嶋大臣」。物部守屋ら排仏派の撃破、崇峻天皇暗殺などを通して蘇我氏の絶対権力を確立。

*4:大連。父尾輿、母弓削阿佐姫。排仏派の筆頭として神道を擁護するも、蘇我馬子との対決に敗れ戦死。

*5:第33代天皇。諱は額田部皇女。父欽明天皇、母蘇我堅塩媛。夫に敏達天皇。日本初の女帝として、聖徳太子の日本の基礎作りを後援。

*6:大徳。第1・3回遣隋使。煬帝からの返書を紛失するなどの失態を演ずるも、遣隋使として日隋国交樹立に尽力。

*7:新羅征討将軍。父用明天皇、母穴穂部間人皇女。兄に聖徳太子新羅征討軍の大将として九州在陣中に病没。

*8:大花上。渡来人集団秦氏の族長格。聖徳太子のブレーンとして活躍。