脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『戦争の日本史17〜関ヶ原合戦と大坂の陣』

http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51609337.html
医療業界に身を置こうとしているものとしては非常に身につまされる事件です。その時自分は逃げずにいられるのでしょうか。


 東京が俺を呼んでいる!京都の連中に本格的に愛想が尽きたので東日本を襲う未曾有の国難に義憤を駆られ、転職の一ヶ月前倒しを志願。向こうさんも快諾してくれて、点数稼ぎには成功してそうなのですが、冷静になってみるとちょっとやっちゃった感がふつふつと。一時の熱情で物事を進めるのはやめましょう。楽しみにしてた『第2次スーパーロボット大戦Z〜破界編』なんてやってる暇ねーだろーなー。

関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)

関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)

s_himaedaをフォローしましょう

仕組まれている終結さえも求め過ぎてた答えならば

関ヶ原の戦い
 慶長五(1600)年九月十五日徳川家康*1率いる東軍(9万)と石田三成*2率いる西軍(8万)との美濃関ヶ原での合戦。天下分け目の戦とも呼ばれる。
 豊臣秀吉*3の死後、豊臣政権の中にあって大きな力を持つようになった家康を政権から排除する為、石田三成らが毛利輝元*4を大将に担ぎ挙兵。この時、家康は上洛要求を拒んだ上杉景勝*5を攻める為諸大名を動員し下野小山に在陣。西軍挙兵の報を聞いた家康は、軍を返し福島正則*6浅野幸長*7黒田長政*8らを先発させ、自らは1600.9.1江戸を発ち'00.9.14美濃赤坂に着陣。'00.9.15朝始まった戦闘は西軍にいた小早川秀秋*9の寝返りを機に東軍優位に展開し、昼過ぎ東軍勝利に終わった。西軍の将三成・小西行長*10らは捕らえられ'00.10.1京都で処刑。戦いの後、家康は大津城に入り、次いで'00.9.27大坂城に入った。この戦いの結果、天下は家康のものとなり、その地位は揺るぎないものになった。(『岩波日本史辞典』より引用)

大坂冬の陣
 慶長十九(1614)年冬の徳川氏と豊臣氏の戦闘。
 徳川家康は1600関が原の戦いでの勝利と'03征夷大将軍就職とによって覇権を確立し、江戸に幕府を開いた。次いで'05秀忠*11に将軍職を譲り、徳川氏の政権継承を図った。しかし、豊臣秀吉から後見を依頼された秀頼*12が大坂にあり、機会ある毎にそれを臣従させようとするが功奏さず、'14方広寺の鐘銘に「国家安康」とあるのに難癖を付け、豊臣方の牢人召抱えを理由として、全国の大名を動員し軍勢20万で大坂城を包囲した。しかし、攻め落とすことができず、'14.12.21外堀を埋めることで講和した。(『岩波日本史辞典』より引用)

大坂夏の陣
 慶長二十(1615)年夏、徳川氏が豊臣氏を滅ぼした戦闘。
 徳川家康は、大坂冬の陣のあと豊臣秀頼に牢人の召し放ちか大和への国替かを迫り、豊臣方を再戦に追い込んだ。戦闘は1615.4.29和泉樫井で始まった。堀を失い城外で戦うことを余儀なくされた豊臣方の奮戦も空しく、'15.5.9大坂城は落城し、'15.5.10秀頼は母淀殿*13と共に自害した。(『岩波日本史辞典』より引用)

 
 関ヶ原の戦い研究の第一人者笠谷氏の描く桃山と江戸の画期を為す三つの大戦の物語。専門分野の関ヶ原パートは骨太な議論に斬新な切り口で一篇の読み物としても堪えうる出来。小山評定の段階ではまだ三成・刑部・安国寺トリオの謀反鎮圧の為の軍事行動に過ぎなかったものが、あれよあれよという間に豊臣政権VS徳川政権の決戦へと発展してしまう。その時、家康のとった決断は!となんとも燃える展開となっています。開戦後も、予想外の三成の奮戦で膠着した戦線に先に致命的な一撃をくれるのは、西軍の本隊毛利・長宗我部隊か、それとも東軍の切り札小早川隊かと手に汗握る展開。これに創作意欲を刺激されない奴は歴史を愛する資格はありません。ついでですが、徳川・豊臣の狭間に立つ象徴的な存在として福島正則がクローズアップされているのでファンは必見。
 一方の大坂の役パートは蛇足感漂うというか、作者の熱情が感じられない手なりの書き様で少し残念。勿論それでも十二分に読み応えありますが。幸村無双がお約束になってしまった昨今の大坂の役のサーガと違う客観的な視点での戦闘描写は結構新鮮です。毛利勝永だの後藤基次の大活躍なんて随分久しぶりに見た気がします。やっぱり前田慶次真田幸村の過大評価はこの時代の真の魅力をスポイルしてますね。

溶けてなくなるほどの進化へとおかえりなさい

 百年強の戦乱を越えて醸成された恐竜的進化の総決算。関ヶ原の戦いが面白くならない訳がありません。BASARAと無双の影響で量産されてる歴女の皆さんも、これを入り口にもう一歩踏み込んで国史の魅力の泥濘につかってください。きっとどんなフィクションも敵わぬ大河ドラマを堪能できますよ。

集結の園へ

集結の園へ

帰ってきた今日の一行知識

17世紀初頭日本は全世界に存在する鉄砲の約半数を所有していた
その集大成が5万挺の鉄砲を集めた空前の規模の会戦関ヶ原の戦い。西欧において同規模の戦いが起こるのは約250年後のクリミア戦争まで下ります。昔から日本人は未来を生きてたんですね。

*1:徳川初代将軍。太政大臣。父松平広忠、母於大の方。旧名:元信→元康。織田・今川両氏の人質として幼年期を過ごす。桶狭間今川義元が横死後は独立し三河を回復。織田信長武田信玄との同盟により遠江に進出。武田征伐及び本能寺の変後の混乱に乗じ旧武田領を吸収し、秀吉と並ぶ一大勢力となるも、小牧・長久手の戦いで臣従、関東移封となる。秀吉死後、関が原で三成との後継争いに勝利し、徳川幕府を開闢。大坂の役で豊臣氏を滅ぼし、政権を磐石なものとした。

*2:佐和山の大名。侍従。父正継、母岩田氏。旧名:三也。幼少時に秀吉に見出され近習として成長。豊臣政権下では稀代の能吏として太閤検地の実施などに辣腕を揮い、秀長死後は五奉行筆頭として政務を掌握。秀吉死後、家康の増長を掣肘せんとするも、武断派との対立で失脚。上杉氏の会津挙兵に呼応し蜂起するも関が原の戦いで敗死。

*3:関白。太政大臣。父木下弥右衛門、母大政所、養父近衛前久。美濃・近江攻略での調略や京都経営で頭角を顕し、織田四天王の一角として累進。本能寺の変後、山崎の戦いでの功績を元に清洲会議の主導権を握り、続く賤ヶ岳の戦いでの勝利と徳川家康との妥協により織田政権を引き継ぎ豊臣政権を樹立。天下統一後、「唐入り」を目指し文禄・慶長の役を起こすも失敗。失意のまま病死。

*4:長州藩初代藩主。権中納言。父隆元、母尾崎局。元就の死後両川の輔弼を得て領国を経営。信長と激しく対立するも本能寺の変後は秀吉に早くから臣従し、五大老の一人として豊臣政権で重きを為した。関が原の戦いでは西軍の大将に祭り上げられた為、領国の過半を失い長防二国に逼塞した。

*5:米沢藩初代藩主。権中納言。父長尾政景、母仙桃院、養父上杉謙信。旧名:顕景。武田氏との提携により御館の乱に勝利し上杉家を継承。本能寺の変後早くから秀吉に臣従し五大老の一人として豊臣政権で重きを為した。秀吉死後、増長を続ける家康と対立し、会津征伐を誘発。関が原の戦い後家康に降伏し米沢に転封。

*6:高井野藩初代藩主。参議。父正信、母松雲院。母が秀吉の叔母だった縁で小姓として仕え、賤ヶ岳の戦い七本槍の筆頭として頭角を顕す。文禄の役でも功あり累進。秀吉死後三成との対立から家康に通じ、関が原の戦いでは先陣争いにも加わるなどして勝利に貢献し、広島50万石を得るも、豊臣恩顧の汚名は拭い難く、広島城無断改築を言いがかりに改易。

*7:紀州藩初代藩主。紀伊守。父長政、母長生院。旧名:長継→長慶。秀次失脚に連座し配流されるも家康・前田利家のとりなしにより復権文禄・慶長の役武断派に接近し、関が原の戦いでも東軍に属し、戦後紀州37万石を得た。

*8:福岡藩初代藩主。筑前守。父如水、母照福院。文禄・慶長の役で頭角を顕し、秀吉死後は武断派として家康に接近。関が原の戦いでも毛利の両川の調略に活躍し、功一等として筑前52万石を得た。

*9:秀詮。備後岡山藩々主。権中納言。父木下家定、母杉原家次女、養父:豊臣秀吉小早川隆景。旧名:秀俊。秀吉の養子として将来を嘱望されるも秀頼誕生により、小早川家に養子縁組。慶長の役に従軍するも秀吉の不興をかい越前転封。秀吉没後旧領に復し、関が原の戦いでは当初西軍に属したが激戦の渦中に離反。戦後戦功から岡山藩に転封なるも、性急な諸改革が守旧派の反発を招き、家中掌握に失敗し失意のまま病死

*10:宇土の大名。摂津守。父隆佐、母ワクサ。最初宇喜多直家に仕え、信長への降伏の斡旋に功あり、秀吉の知遇を得た。豊臣政権下では、水軍を率い九州征伐文禄の役で活躍し累進するも、関が原の戦いで敗死。

*11:徳川。徳川2代将軍。太政大臣。父家康、母西郷局。上田城攻めで関が原の戦いに遅参するなどの失態がありつつも、母の身分などから家康の後継者となる。将軍継承後は武家諸法度の制定や有力外様大名の改易などで江戸幕府の基礎を築いた。

*12:豊臣。摂津の大名。右大臣。父秀吉、母淀殿。父秀吉より豊臣政権を継承するも、関が原の戦いにより実権は徳川家康に奪われる。以降も大坂に二重公儀体制と呼ばれる特殊な政権を護持するも、大坂の役により滅亡。

*13:茶々。豊臣秀吉側室。父浅井長政、母お市の方。子に鶴松、秀頼。