脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『万葉集を読む』

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GAINAXの本気が凄い。往時を髣髴とさせる大暴走は期待充分。「けいおん!!」に次ぐ社会現象を起こせるか。


 やらなきゃいけないことが山積してて現在処理落ち真っ最中。もう少し高スペックで長時間稼動にめげない起動がスムースな頭脳が欲しい。

万葉集を読む (歴史と古典)

万葉集を読む (歴史と古典)

かくばかり恋ひつつあらずは

万葉集
 現存最古の歌集。万葉は万世の意で、万世に伝われという祝福を込めたものか。20巻。歌数は4500余り(国歌大観の番号では4516となるが、或本の歌の数え方などで説が分かれる)。成立に関しては確かな資料がないが、大伴家持*1が編纂に関ったと認められ、家持の関与は、最終的に現在のかたちにまとめることにあったと見られる。全体を整然と一貫した方針で構成するのでなく、巻1・2など、早くから歌集として作られてきたものを組込みながら、20巻として完成された。舒明天皇*2から聖武天皇*3までの代の歌を歴史的に構成した巻1-6を機軸とし、他の巻はそれぞれの特色を持ちながら、全体として歌により天皇の伝統的世界を描き出す。例えば巻14の東歌は東国まで歌が覆うことにより天皇の統括する世界の拡がりを示すものとして位置づけられている。歌は、8世紀半ばまでの時期の長歌・短歌を中心に旋頭歌などを含む。歌人では額田王*4柿本人麻呂*5高市黒人*6大伴旅人*7山上憶良*8・笠金村*9山部赤人*10高橋虫麻呂*11大伴家持田辺福麻呂*12大伴坂上郎女*13などが著名。(『岩波日本史辞典』より引用)

 信頼の吉川弘文館ブランドでもとびっきりの学術書よりの本。それとも私が古代や国文に疎いだけかしら。
 てなわけで、各歌の詳細解説は正直ちんぷんかんぷんですが、歴史パートでの文化的背景の解説は非常に読み応えのある骨太の議論。苦労する甲斐はあります。飽くまで論文集なので奇を衒った新説や物語的に面白い深読みとかはほぼ皆無ですが、まあそれを求めるのは筋違いでしょう。平安歌壇の小手先の技術に犯される前の純朴なる日本人の原風景をご堪能あれ。

 

きみなくはなぞ身をよそはむ

 正岡子規の偉い持ち上げで、古今以降の平安和歌は邪道だなんて風潮がありますが、個人的にはプリミティブな情熱の躍動を認めるにしても、やはり平安時代に爛熟した短歌の技巧と教養の蓄積を重んじたいと思います。油断するとマニアックになりすぎて初心者お断りの内輪受けに陥ってしまうという、現代でも純文学映画アニメと続く日本人の悪習の典型ですが、それこそが日本文化の真髄のような気がしなくもありません。そんな意味でも、本歌取りと枕詞の怪物みたくなった中世以降の和歌の再評価が待たれます。何も独創性だけが芸術じゃない。

万葉恋歌 ああ 君待つと

万葉恋歌 ああ 君待つと

帰ってきた今日の一行知識

平安時代は行の子音は「F」だった
要はふぁふぃふふぇふぉだったんですね。なので枕草子の冒頭は「ふぁるはあけぼの・・・」なんだかちょっと間抜け。

*1:中納言従三位。父旅人、母丹比郎女。安積皇子に供奉し、三十六歌仙の一人に数えられる程の歌才を以て累進。藤原仲麻呂暗殺計画・氷上川継の乱藤原種継暗殺事件に連座するなど反主流派の立場を貫いた。

*2:第34代天皇。諱は田村。父押坂彦人大兄皇子、母糠手姫皇女。蘇我蝦夷の傀儡として即位。在位中は遣唐使派遣や朝鮮諸国からの諸使来訪など活発な外交が行われた。

*3:第45代天皇。諱は首。父文武天皇、母藤原宮子。長屋王の変天然痘の大流行などにより、紫香楽・恭仁への遷都を断行するも頓挫。晩年は仏教に深く帰依し、東大寺の大仏を建立するなど保護に努めた。

*4:天武天皇妃。父鏡王。子に十市皇女。美貌を謳われ天智・天武との三角関係を結んだとも。

*5:父大庭。赤人とともに歌聖として称えられるもその事績は不詳。

*6:藤原京時代に活躍した宮廷歌人

*7:大納言。従二位。父安麻呂、母巨勢郎女。隼人の反乱鎮圧などに功あり累進。大宰帥時代に憶良と共に筑紫歌壇を形成した。

*8:筑前守。従五位下。父憶仁。遣唐使に同行し仏教・儒教の愛民思想に傾倒。帰国後地方官を歴任しながら多くの社会派の歌を詠んだ。代表作:「貧窮問答歌」。

*9:越前守。父笠垂。万葉集に数多くの秀句を残す。

*10:上総少目。外従六位下。父足島。人麻呂と共に歌聖と称されるも、官職は下級に留まり事跡は不詳。

*11:藤原宇合配下として活躍。地方歌などで著名。

*12:万葉歌人。事跡は不明。

*13:穂積皇子妃。父安麻呂、母石川内命婦。子に坂上大嬢・坂上二嬢。穂積皇子に嫁ぐも死別。大伴宿奈麻呂とは二児をなすもこれまた死別。その後は兄旅人に同行し、甥の家持らを養育した。