脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

白雲なびく

[三題噺]卍と明治大学院政について

http://hamusoku.com/archives/3600053.html
原爆の焼け残りの元港町の裏路地の袋小路で生まれ育った身としてはニュータウンの整然とし過ぎた町並みにはどうも馴染めません。


 ようやく夜クーラーなしで寝られるようになってきました。けどあと一ヶ月もすればもう暖房が欲しくなるんだろーなー。もう少し春秋の期間が長くはならないもんでしょうか。

歴史は古く今もなほ強き光に輝けり

卍+You Tube

卍 - 脱積読宣言


唄:陰陽座、作詞曲:瞬火*1
初出:『甲賀忍法帖』(2005.4.27)
歌詞はこちら

You Tube
 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンブルノにある企業で、インターネットで動画共有サービスを行っている。
 Youは「あなた(視聴者)」、Tubeは「テレビ(ブラウン管)」という意味でありYouTubeは「あなたが作るテレビ」という意味合いが込められている。これには、「個人が番組を作り、配信して楽しんでほしい」という願いが込められている。(wikipediaより引用)

甲賀忍法帖

甲賀忍法帖

明治大学

じゃじゃ馬にさせないで - 脱積読宣言

明治大学
 東京都千代田区に本拠を置く私立総合大学。
 1880フランス法学派の法律教育機関として創設された明治法律学校が起源。1903専門学校令による明治大学となり、'20大学令による正規の私立大学として認可され、法・商の2学部を持った。'25政治経済学部を設置。戦後、'49法・商・政治経済・文・工・農の6学部を持つ新制大学として発足。'53経営学部を設置、'88工学部を理工学部に改組。'98現在、7学部7研究科*2を持ち、学部学生数は32,200人*3を数える。(『岩波日本史辞典』より引用)

MEIJI UNIVERSITY by AERA 明治大学、わたしのプライド (AERA Mook)

MEIJI UNIVERSITY by AERA 明治大学、わたしのプライド (AERA Mook)

院政

ガンダーラ - 脱積読宣言

院政
 院が政治を司る政治形態。
 律令制の下でも天皇を退いた太上天皇が政治を行うことは可能であって、孝謙太上天皇*4は政治に関与した。その後も上皇が政治に関ることは多かったが、後三条天皇*5に至って、直系の子孫に皇統を継がせようという意思が強まり、1086白河天皇*6が子の堀河*7を、更に1107孫の鳥羽*8をと次々に皇位につけ、それを実現する為に国政を握ったことが院政の始まりである。それは同時に天皇家という家の形成とも関連しており、院は天皇家の家長として天皇を補佐して国政を握ったのであり、「治天の君」と称された。院政保元の乱に於ける天皇家の争いと平治の乱後の二条天皇*9との対立とを克服した後白河院*10によって確立された。政治の決定権は院が握り、摂関は天皇の後見であると共に、院の補佐をする役割を果たすようになった。1183源平の争乱により安徳天皇*11都落ちした後も院政は継続され、承久の変後に天皇の位を経てない後高倉院*12院政を行うようにもなった。更に制度の整備は後嵯峨院*13の時代に院評定制が敷かれたことで完成し、評定衆の合議が重視されるようになった。後嵯峨院の後には皇統の分立もあったが、院政は二つの皇統の間で交替で行う形をとって続けられ、後醍醐*14の親政も基本的には院政と同じ形態をとっていた。しかし、後醍醐天皇の時代を契機に、天皇家の支配権の低下とも相俟って院政の変質が始まり、光厳*15院政が終わった1351から後は断続的に時の政情の動きに基づいて院政は便宜的に行われるようになり、江戸時代の光格*16院政の終わる1840まで見られる。(『岩波日本史辞典』より引用)

院政―もうひとつの天皇制 (中公新書)

院政―もうひとつの天皇制 (中公新書)

眉秀でたる若人が撞くや時代の暁の鐘

明治大学校歌

明治大学校歌

帰ってきた今日の一行知識

ヨーロッパで卍を書くと逮捕される
ナチスの卐と紛らわしいから一緒くたに禁止ってことらしいですが、白人さんはやることが大雑把ですね。これではヨーロッパへの仏教の布教はなかなか難しそうです。

*1:陰陽座リーダー。

*2:2010.8現在は9学部13研究科。

*3:2009.6現在29.274名。

*4:称徳。第46・48代天皇。諱は阿倍。父聖武天皇、母光明皇后。史上初の女性皇太子として即位。最初の治世は母の光明皇太后の後見により恵美押勝の専横を招き、橘奈良麻呂の乱を期に淳仁天皇へ譲位。母の死後は押勝天皇を廃し重祚道鏡を重用し中国風の皇帝制度を目指すも道半ばに頓死。

*5:第71代天皇。諱は尊仁。父後朱雀天皇、母陽明門院。藤原氏外戚に持たぬ久しぶりの天皇として藤原頼通らと対立。延久の荘園整理令や宣旨枡の制定など「延久の善政」と呼ばれる政治を行い、院政期への扉を開いた。白河帝に譲位し院政を行おうとした矢先に病死。

*6:第72代天皇。諱は貞仁。父後三条天皇、母藤原茂子。村上・醍醐・宇多の各源氏勢力を背景に藤原氏を圧倒。北面の武士などの組織により「院」の権力基盤を強化。「治天の君」として半世紀弱に亙り君臨した。

*7:第73代天皇。諱は善仁。父白河天皇、母藤原賢子。大江匡房らに輔弼され賢王の評判をとるも、父白河の院政により実権を握ることの無いまま病死。

*8:第74代天皇。諱は宗仁。父堀河天皇、母藤原苡子。白河帝の後を襲い治天の君を継承。美福門院とその子近衛帝を寵愛し、嫡子崇徳帝と厳しく対立、死後保元の乱を招く。荘園の収集に熱心で中世的所領の原点となった。

*9:第78代天皇。諱は守仁。父後白河天皇、母源懿子。美福門院に養育され鳥羽帝の後継者に擬せられ、父後白河帝と対立。平治の乱では平氏に通じ平氏政権の基盤となった。

*10:第77代天皇。諱は雅仁。父鳥羽天皇、母待賢門院。保元の乱に勝利し治天の君の座を継承。保元の整理令などで皇室権力強化に尽力。平氏政権や鎌倉幕府と対立妥協を繰り返し伸張著しい武家政権から一定の王権を死守した。

*11:第81代天皇。諱は言仁。父高倉天皇、母建礼門院平氏政権に擁立され僅か2歳で即位。木曽義仲に都を逐われて以降は西走を続け最期は壇ノ浦の戦いで敗死。

*12:太上天皇。諱は守貞。父高倉天皇、母七条院。承久の変後、急遽息子が即位した為、天皇を経験しないまま太上天皇宣下。治天の君として朝政を掌握した。

*13:第88代天皇。諱は邦仁。父土御門天皇、母源通子。父土御門帝の配流に伴い皇位から遠ざかるも、北条泰時に擁立され即位。次男の亀山帝を偏愛し、両統迭立の原因を作った。

*14:第96代天皇。諱は尊仁。父後宇多天皇、母談天門院。延喜の治を理想とし、生前より後醍醐と自称。院政を停止し記録所を設立し親政を断行。正中・元弘の変の二度の失敗にめげず鎌倉幕府打倒に傾注。足利高氏楠木正成らの活躍で倒幕に成功し建武の新政を断行するも、武士軽視の姿勢が足利尊氏の反乱を招き、京都を逐われ吉野に南朝を開設した。

*15:北朝初代天皇。諱は量仁。父後伏見天皇、母広義門院。元弘の変により即位するも、鎌倉幕府滅亡により退位。建武の新政破綻後、足利尊氏に擁立され治天の君に。南朝に拉致されるなどの苦難の果てに仏道に帰依し、帰京後も現世を離れ隠棲した。

*16:第119代天皇。諱は兼仁。父慶光院、母大江磐代、養父後桃園天皇。旧名:師仁。後桃園帝の急死により閑院宮家より即位。尊号事件などで幕府と対立し、朝廷儀式の復旧など王権復興に尽力した。