脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『高杉晋作〜維新前夜の群像1』

http://wara2ch.blog24.fc2.com/blog-entry-1813.html
ああ、日本人はまだ大丈夫だ。


 職場が本館を離れ別館に。最近坂道50mダッシュ日課になってます。運動っていいものですね。

何処で咲くかは風に訊け

高杉晋作
 天保十(1839)〜慶応三('67)年。幕末の長州藩士。父は小忠太*1
 1857藩校明倫館に入学。次いで吉田松陰*2松下村塾に入り久坂玄瑞*3と共に双璧と称せられる。'58.7江戸に赴き昌平黌に入学。獄中の松陰に金品を送る。'61世子毛利定広*4の小姓役、'62.5藩命により幕府船千歳丸に乗船し上海に渡航、植民地の実情を観察し帰国。'62.11久坂らと品川御殿山に新築中の英国公使館を焼討ちにする。'63.1松陰の遺骨を小塚原から回収、武蔵国荏原郡若林村に改葬。'63.3上洛。尊攘運動の興奮を厭い10年間の暇を乞う。「西へ行く人を慕ふて東行く心の底ぞ神や知るらん」と、僧形となり東行と号して萩に隠棲。時に長州藩は外国船砲撃を断行し、報復攻撃にあって敗北。直後の'63.6藩命により下関防御の任に当たり奇兵隊を結成、自ら総督となる。奇兵隊の「奇」は正規軍の「正」に対する「奇」で、庶民も入隊できる有志隊であった。
 八月十八日の政変で京を逐われたのち、長州藩内に高まる武力上洛論に反対、'64.1脱藩し上京、帰国して獄に入れられる。'64.8出獄後四国艦隊による下関砲撃の善後処理を命じられ講和条約を締結。第一次長州征伐の進行に伴い佐幕派の藩政府が誕生、危機を察して九州に脱走し野村望東*5の平尾山荘に潜伏。'64.12下関に帰り挙兵。死を覚悟し「故奇兵隊開闢総督高杉晋作、則ち西海一狂生東行墓」の墓誌を用意した。佐幕派藩政府を相手に勝利を収めたのちイギリス留学を希望。次いで脱藩し讃岐の日柳燕石*6の下に身を寄せる。帰藩後、用所役として藩政指導を担当。'66.6海軍総督、幕府との開戦直後、小倉方面の戦闘を指揮した。'66.10肺結核を重くして退職、'67.4下関に没した。(『朝日歴史人名辞典』より引用)

 奇兵隊の創設者にして、狂気の人高杉晋作君の伝記。維新前夜の群像のサブタイトル通り、本格的蠢動を開始するイギリス公使館焼討事件以前に力を入れて叙述されています。そこで描かれる高杉晋作の姿は、従来の狂人のそれではなく、ひたすら愚直で真面目に国と藩を憂いながらも、常識や孝心を捨てきれず煩悶する優等生の憂鬱。綺羅星の如き松下村塾の中でも群を抜いた名家出身の彼が、父からの過大な期待と尊攘の志との相克に悩み、桂や久坂ら同輩の単純な熱情を羨む様は、どんな歴史小説よりも美しい物語となっています。青年高杉晋作の憂鬱に頁を割いてる都合上、奇兵隊大暴れとかの華やかさには欠けますが、その分詩情すら感ずる新たな晋作像は、創作のネタにしたい位。そこの腕に憶えのあるあなた、手垢の付き捲った幕末英雄列伝に新風を吹き込んでみませんか。

いつか時の流れを越えて真実になる日が来る

 「頭に理性を、心に狂気を」これが私のモットーですが、高杉晋作はこれを地で行った人かも知れません。彼のパブリックイメージの狂人東行の姿は、自身の心の奥底に滾る憂国の志と、期待をかけ愛情込めて見守ってくれる父への孝心とに折り合いをつける為の仮面だったような気がします。人間何かを為さんとするには真正であれ、仮初であれ狂気に身を任せる必要があるのかもしれませんね。


帰ってきた今日の一行知識

高杉晋作はチビなのがコンプレックスだった
立ち姿の写真が残ってないのはその為だとか。因みにそれが高じてか、馬鹿みたいな長刀を佩いていた為に逆に指差して笑われてたそうです。

*1:正方。長州藩大監察。200石。父春豊、養父武藤又左衛門。長州藩側用人として頭角を現し、累進。幕末期には幕藩間の交渉役を勤める。一旦は晋作に家督を譲り引退するも、死後復帰、藩政を掌握した。廃藩置県を期に再引退、毛利家の歴史編纂事業に従事した。

*2:矩方。明倫館兵学教授。父杉百合之助、母滝、養父吉田大助。佐久間象山に師事し西洋兵学を修める。ペリーの浦賀来訪時に密航を企てるも失敗し実家に幽閉。そこで松下村塾を開き木戸孝允ら維新回天の志士を多く輩出した。間部詮房の暗殺を計画するも門人らの反対で挫折。それを口実に安政の大獄で死罪。

*3:通武。京都藩邸御用掛。父良迪、母富子。松陰門下の三秀の一人として将来を嘱望される。松陰刑死後は過激尊攘運動にのめり込み禁門の変で夭折。

*4:元徳。山口藩知事。公爵。父広鎮、母(三宅)多喜勢。旧名:広封。敬親の世子として毛利宗家を継ぎ、第15国立銀行頭取・貴族院議員などを歴任。

*5:野村清貫夫人。父浦野勝幸。夫の死後受戒し福岡の山荘に隠棲。月照高杉晋作尊攘派志士を多く匿った。

*6:政章。会津征討軍史官。父加島屋惣兵衛。詩文書画を能くし文名を馳せる。金比羅宮に集まる博徒を束ねる親分となり、多くの尊攘派志士を後援した。