痛いニュース(ノ∀`) : 「朝の3時ごろまで、盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思う」 米兵による少女集団レイプで、広島県知事が発言→非難の声 - ライブドアブログ
雄山よく言った。さすが広島県民の代表。
久しぶりの休みは暇を持て余してしまいます。
アレコレ悩んじゃってため息しか出てこないや本当
黒田博樹+襲撃
黒田博樹
昭和五十(1975)年2月10日生まれ。大阪市出身。184?85?。右投右打。背番号15
上宮高校(1990-'92)→専修大学('93-'96)→広島東洋カープ('97-2007)→ロサンゼルスドジャース('08〜)
‘07成績:試合26完投7完封1勝利12敗戦8勝率.600投球回数179.2三振123自責71防御率3.56
通算成績:試合271完投74完封14勝利103敗戦89セーブ1勝率.536投球回数1700.1三振1257自責697防御率3.69
受賞歴
最多勝(2005)、最優秀防御率('06)、最優秀投手('06)、ベストナイン(投手)('05)、ゴールデングラブ賞(投手)('05)、スピードアップ賞('06)
襲撃
襲い打つ。不意打ちすること。(『大漢語林』より引用)
カープからドジャースに出稼ぎに行った黒田博樹。昨年’06年のストーブリーグでも主役の座を譲らなかった彼ですが、関西在住の私としては、阪神の獲得確定みたいな皮算用に腹を立てながらも関西人の情報不足を嘲笑っておりました。在阪マスコミとしては、大阪出身かつ父親が元南海=阪神ファンという短絡的かつ自己中心的な公式から「黒田は阪神に来たがっている」という希望的観測を記事にしたのでしょうが、広島ファンにとっては黒田の巨人・阪神嫌いは有名だったのです。黒田の父親譲りのアンチ巨人ぶりはカープファンならずとも知らぬ人は少ないでしょうが、阪神嫌いは意外としられていないのではないでしょうか。その原因となったと思われる事件が、表題の「阪神ファン黒田実家襲撃事件」です。広島人の特権たるお正月のカープ特番で佐々岡が暴露したこの事件。詳細は不明ですが、佐々岡の証言やネットでの噂をまとめると、「黒田が阪神戦で完封勝利を納めたある日、暴徒化した一部の阪神ファンが当時まだ大阪にあった黒田の両親宅を襲撃し、ガレージを破壊した。その結果、黒田は両親を広島に呼び寄せる羽目になった。」といったもののようです。それを知っていたお陰で、去年の今頃も私は心穏やかでいられたのです。いじめっこはすぐ自分の悪事をなかったことにするからよくないよね。
2007 広島東洋カープ GAMEMAKERSシリーズ1 黒田博樹(ホーム) 限定1.500体
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唐+科挙
唐
武徳元(618)〜天祐四(907)年。中国の王朝。隋末の内乱から興って全国統一事業の再建に成功、約300年の国運を保った。唐は3世紀以来の門閥社会を変貌させつつもその枠を破り得ず、民衆反乱の打撃を受けて崩壊したが、後半期には次の時代への曙光が見られる。初代高祖*1は隋末の大乱を平定し、次代太宗*2朝に国家の基礎が固まった。隋制を継承して、均田制と郷里隣保の制を人民支配の基礎とし、租庸調を収取して財政の基本とした。府兵制と称する軍事機構、科挙制を通じて形成される官僚群、三省六部の整然たる中央官制、地方行政機関たる州県制等々がその権力を構築する。政府・民間には部曲・奴婢などの賤民も存在したが、王朝の土台は自立した人民にあった。商工業はまだ官許の市に局限されて行われるにとどまり、全体として自然経済が優位を占める。統計上の人口は最大時(天宝末)には5000万を越えた。その中には異種族も含み、覊縻政策による世界帝国体制は、日本朝鮮はもとより、遠く東ローマ・中近東・インドとの交渉を生んだ。それは単なる一国家ではなく、寧ろ一つの世界であった。3代高宗*3の後の則天武后*4の革命は、向上する生産力を踏まえた富商・地主の下剋上であった。それは失敗して玄宗*5朝の反動となるが、大土地所有・商業資本の発展、他方無産人民の増大は押しとどめ得ず、辺境覊縻体制の破綻、藩鎮勢力の台頭と絡んで、律令制の全般的解体が進行した。結果として起こった安史の乱は唐代を前後2期に分かつ。反貴族の機運は藩鎮の自立化を来たし、他方、地方政権化する唐朝は両税法への転換、対藩鎮戦争の強行などによって再建を図ったが、その内部の腐蝕は宦官の権勢、官僚間の党争となって表れた。最後に黄巣*6ら民衆の反乱が藩鎮の枠を破って直接唐朝に立ち向う。反乱平定後も反乱軍が残した軍閥が地方に割拠し、貴族制は唐朝と共に生命を終えた。五代を経て宋に至り、新体制が確立するが、その古文復活運動・庶民文学・新儒教主義なども既に唐朝後半に勃興する。かかる唐〜宋の変化を中世社会の出発とするか近世へのそれとするかは、中国史学上の一大論争点となっている
科挙
隋の文帝*7時代より1905年まで約1300年間行われた高等官吏資格試験。公平な実力試験によって広く人材を挙用することを目的とし、古典の教養を試験した。例えば、隋の進士科は詩賦と策を以て試し、唐の秀才科は方略策五道を課し、宋以後は、経義・詩賦・論策を併せ問うた。
唐代に一応整い、科目も6科を数えたが、秀才・明経・進士の3科が栄えた。応試資格は成績優秀の学館の生徒中より選抜された者、及び州県に自ら出願して考試を受けて及第し、中央に貢送された者(郷貢)などであった。試験方法は大義・帖経(経書についての一種の筆答試験)と策・文・詩賦・墨義(経書に関する一種の筆答試験)とに分かれた。ただ秀才科は策問を以て試み、頗る難関であったので自然と衰え、経学を主とする明経、詩賦を主とする進士の2科が栄えた。殊に進士科は出世が早いというので、次第に重きを加え、宋代に入り進士の名に統一された。試験は唐代のはじめ吏部考幼員外郎の司るところであったが、玄宗に至って礼部侍郎に移管された。
唐代科挙の特色はその運営面にあって、礼部所管の科挙試験に及第しても官吏となる資格が付与されたに過ぎず、更に吏部における採用試験ともいうべき身(人品)・言(言語)・書(筆跡)・判(法律問題)の試にパスしなければ実官に任じられることはなかった。
ところが宋太祖*8に至って殿試が創設された。殿試とは解試(地方試)・省試(礼部試)の後に、試場を宮中に設け天子自ら軒に臨み、天子自身の責任の下に行われる最終最高の試験であるから、進士出身官僚は天子の門生たる地位を誇りとして忠誠を誓い、以て近世独裁君主制の確立に一大影響を与えた。明清にも殿試は受け継がれたが、宋代科挙の特徴は実に解試・省試・殿試の三段階制の成立を以て最も大とする。宋初の科目には進士科の他に明経を含む諸科が存在したが、進士科のみが栄えた。殿試は仁宗*9朝より落第させぬのが原則となり、ただ省試の成績順列を上下変更するのみと定め、英宗*10の時科挙施行を3年に1回と決めた。
以上の宋代の新方針は明清の常法として受け継がれた。明清は殊に科挙応試の資格として府州県学の生徒(生員)であることを原則と定められた為、学校の科挙への隷属は著しく、学校は教育の場としては有名無実となった。(『新編 東洋史辞典』より引用)
隋に濫觴を持ち、唐で発展し、宋で完成し、明に全盛を迎え、清に爛熟した科挙。良くも悪くも中世中国文化を規定するこの制度の発展期の唐代の事情を以下に紹介します。
秀才・明経・俊士・進士・明法・明字・一史・三史・開元礼・道挙・童子etcと各科のあった唐代の科挙ですが、現代の大学の各学部と同じようにそれぞれ難易度や貴賤に差がありました。文学部のように人気も実用性もなかったのが明字・明法・明算の各科、逆に法学部のように大手を振っていたのが秀才・進士・明経の三科。特に人気と難易度を兼ね備える医学部のような科が進士科でした。あまりの人気に他の科は廃れ、唐代末期にはほぼ科挙=進士科な状態になってしまっています。清代に科挙登第者を「進士」と呼んでいるのがその名残です。
その進士科の特徴は試験科目の中でも「詩賦」を重視したところにあります。書道を齧ったことのある人なら一度はお世話になったであろう『唐詩選』。唐代に漢詩が隆盛した理由はここにあります。一発試験では真の実力は見れないという至極当然な理屈に従い、試験官の推挙という平生点を重視した試験制度の下で、「行巻」と呼ばれる自己推薦制度が幅を利かせたため、受験生は皆こぞって詩を作り、試験官の下に届けたのです。因みにこの「行巻」の風習は時代が下るに従い、受験生のレベルも低下したのか、韻律を重視した漢詩からフリースタイルの雑文へと主流が移り変わっていきました。因みにこれが宋代の小説の流行の下地となった模様です。
さてそういう風に、試験官の裁量権が大きくなれば、賄賂の横行するのは世の習い。門閥制度に対抗できる官僚制を確立せんと作られた科挙制度も、資力・コネが勝負を決める有名無実のものとなってしまい、結局貴族制の全盛時代を招来することとなってしまいました。
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日独伊三国同盟
日独伊三国同盟
1940.9締結された日独伊間の軍事同盟条約。’39の日独間の防共協定強化交渉はソ連を対象としていたが、’40.7成立した第二次近衛内閣の松岡洋右*11外相の下で、英米を対象とした軍事同盟が計画され、’40.9松岡とドイツのスターマー特使の会談によって一挙に成立。ドイツが対米戦に突入した場合に日本が自動的参戦の義務を負うかが論議され、日本側は参戦の時期と方法については「自主的」に行うという主張を貫徹した。ドイツ側は、アメリカの対独参戦を防ぎ、日本側は南方政策に対するアメリカの介入を抑止することに目的があったが、却ってアメリカを刺激し、対米関係を悪化させた。又近衛首相*12や松岡外相はソ連を加えて「四国協商」とする計画であったが、独ソ関係の悪化で実現しなかった。(『岩波日本史辞典』より引用)
戦前期の愚行数あれど、大日本帝国の破滅を招いた最大の愚行はこの日独伊三国同盟でしょう。「松岡・白鳥は許せん」という昭和天皇の大御心の披瀝には心から賛同できます。海軍主導のイギリス・ソ連との連携を完膚なきまでに破壊し、ドイツが心から恐れたアメリカ参戦を誘発し、敗北の女神の偏愛を独り占めするキングオブ疫病神イタリアを自陣営に招くなど、日独どちらも一切得をしないこんな腐れ同盟は何がどう間違って締結されてしまったのでしょうか。以下紹介。
日本とドイツの関係は古く大日本帝国黎明期にまで遡ります。民主的に過ぎる英仏法を嫌った伊藤らは憲法をドイツ法律学を範とし、山県は当時日の出の勢いの鉄血宰相ビスマルクを師匠に陸軍を創設しました。その他医学など学術部門での交流も深く、ドイツは大日本帝国の父とも言える存在でした。しかし、基本的に選民思想好きのドイツ国民が日本人などを歯牙にかけるわけもなく、日本の一方的な片思いに終っています。特に中国での利権争いが表面化して以降は、ヴィルヘルム2世が黄禍論を唱え、仏露と組んで三国干渉を行うなど、日独は犬猿の仲と言っていいものでした。
状況が変わったのは満州事変以後。主食の大豆を満州地方に高度に依存していたドイツは日本との接近を余儀なくされます。日本でも白鳥敏夫を筆頭とする外務省内「革新官僚」グループや天才煽動者松岡洋右の台頭により、親独派が世論を牛耳りました。結果、世界での孤立を深める両国は、同じくハミ子のイタリアを仲間に加えて不思議な三国同盟が結成されてしまったのでした。
しかし、蜜月は長く続きません。独ソ戦開始により、松岡・近衛の思惑だった日独伊ソ四国同盟は完全に頓挫し、日本の真珠湾攻撃によりヒトラーが心から恐れたアメリカのヨーロッパ戦線参戦の口実を与えてしまいました。以降は制海権も失った両国は連携も取れぬまま各個撃破を喰らい第二次世界大戦は終結します。
第二次世界大戦と日独伊三国同盟―海軍とコミンテルンの視点から
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だらだら時間過ぎてここまで来ちゃいました
日独伊三国同盟が成るまでは、イギリスが独ソ両国の牽制の為、日英同盟の復活を目論み日本に接近するなど、宮廷や海軍の主導する親英米路線もありえました。ナチス世界帝国対ソビエト共産圏対日英米三国連合の三竦みなんて心躍る歴史の可能性を潰したのは、科挙の伝統を引く高等文官試験や陸軍士官学校での試験地獄を潜り抜けた融通の利かない石頭どもです。黒田博樹のように不器用な漢は我々を魅了しますが、頑迷固陋の権化のような官僚や軍人ほど有害なものはありません。今の時代も軍人こそなりを潜めましたが、官僚の跋扈は深刻の度を増しています。襲撃してでもこのアンシャンレジームを打破しなければなりません。願わくばその後の世界は唐代のように詩歌の尊ばれる文系天国でありますように。もう勉強しか出来ない連中の書いた糞面白くもない文章の氾濫にはうんざりです。
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*1:諱は淵。字は淑徳。父李蚘、母独孤信四女。
*3:諱は治。字は為善。父太宗、母文徳皇后長孫氏。妻に則天武后。
*4:武則天。武周初代皇帝。諱は照。父は武士庶??A母楊夫人。夫に高宗。中国三大悪女が一。「武韋の禍」。
*5:唐6代皇帝。諱は隆基。父睿宗。「開元の治」。楊貴妃を寵愛。
*6:Huang Chao。山東省荷沢県の人。私塩商人。黄巣の乱を主導。
*7:高祖。隋初代皇帝。諱は堅。華陰の人。父楊忠。子に煬帝。
*11:第14代南満州鉄道総裁。「満蒙は日本の生命線」の流行語の発案者。国際連盟脱退時の全権。A級戦犯容疑者として収監中に病死。
*12:文麿。第34・38-39代内閣総理大臣。公爵。父篤麿、母(前田)衍。孫に細川護熙。「革新貴族」の代表として全国民の期待を背に首相となるも軍部の暴走を掣肘できぬまま退陣。戦後GHQの出頭命令に絶望し服毒自殺。