脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

『戦国武将』

http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20061220&a=20061220-00000031-nks-fight
「勝てば八百長、負ければ実力」なんでこんな一文の得にもならないマッチアップを組んだんでしょう。協栄もTBSも貧すれば鈍するを地で行ってますね。
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http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20061220&a=20061220-00000019-spnavi-spo
 八百長でしたw前回この試合運びやっとけば文句も出なかったでしょうに。とりあえず、解説の鬼塚の阿諛追従が果てし無くうざかったです。そう考えると、竹原や畑山はそこら辺のさじ加減が上手かったんだなと。


 ハードカバーに手を出す暇と元気が湧きません。今年は年末の出版ラッシュにマストバイな本が少ないのがせめてもの救いでしょうか。

傷ついたあなたの両手で 明日がほら生まれてゆく 輝いてゆく

戦国大名
 応仁の乱以後の戦国争乱の中で国ないし郡規模の領域を分国(領国)として支配した地域政権の主催者。細川政元*1の将軍廃立(明応の政変)や北条早雲*2の伊豆侵攻が戦国大名登場を象徴する事件である。戦国大名の系譜を見ると、出自は守護(武田・今川・六角・大内・大友・島津)、守護代(上杉・尼子・朝倉・三好)、国人(伊達・松平・織田・浅井・毛利・長宗我部)、及びそれらの家臣(北条・斎藤)と多様である。下剋上の世を反映して守護から生き残った割合は少なく、守護家出身でも家督争いや国人との戦争を経て支配権を掌握したものが多く、戦争の中から形成されてきたのが戦国大名である。彼等は、室町幕府から諸国の守護職を命じられた室町時代と異なり、〈自分の力量を以って国の法度を申付け〉国を治めている(今川仮名目録追加)という意識を持っていた。
 登場の背景には、広範に成立してきた加地子の収取権を集積した百姓が侍身分を自称し(地侍)、旧来の身分秩序を崩し、また幕府・守護の支配権が衰えて領主階級の土地所有秩序が崩れ、他領への侵略が横行していた社会状況があり、戦争を戦い抜く中で敵の所領を没収し、味方の武士に所領の宛行・安堵をすることで土地支配権を掌握し家臣団を形成していった。地侍は加地子得分や新恩を給与して積極的に家臣に取立て、彼等を寄子とし、一門・譜代などの重臣を寄親としてその指揮下に置く寄親・寄子制をとって機動的な軍事編成を行った。家臣の所領は貫高で統一的に把握し、それに比例して軍役をかけた。貫高を確定するために検地(指出検地)を行い、それに基づいて百姓の年貢高も定めるという貫高支配制を行った。検地により、加地子を把握して膨脹する家臣団を維持する経済的基盤とするなど、年貢増徴・農民支配強化・兵と農の身分編成を実現し、更に家臣の要求に応えて領土拡張戦を継続するとともに、領国と領民を侵略から守り、経済活動を保障する政策や法による支配を打出して公権力としての正当性を獲得した。城下町建設・田畠開発・鉱山開発などはそうした政策の一環であり、そうして権力基盤を拡大した大名は、領民を職能に応じて身分編成し、役(兵は軍役、百姓(農)は百姓役、商人は商人役、職人は細工役)を負担させるという、身分と役負担の体系を作り出した。これらの政策は豊臣政権の政策に影響を与えた。(『岩波日本史辞典』より引用)

 戦国時代雑学本のトップ作家、小和田哲男先生の著作。相変わらずの安定感で肩の力を抜いて楽しんで読めます。ただ「戦国武将」という壮大なテーマには流石に紙幅が足りなかったか、多少ならずとっ散らかって浅い印象を受けます。話の種にでもなれば、程度の軽い気持ちで読むのが吉でしょう。あと、1981年初版ということで、流石に古さは否めないので、理系や法学系の、最新情報以外価値はなしな人にとっては読むだけ時間の無駄かも知れません。頻出する「階級的要求」や「階級的対立」といったマルクスマルクスした単語に古き好き時代を感じることに出来るおおらかな人にこそオススメの本です。


 内容を要約すると戦国期の武将は近世以降の武士とは根本的に違う性格を持っていた。という当時にしたら斬新であったであろう議論です。具体的には挙げると、戦国期の階級身分の流動性。主君と被官の対等性。戦国大名専制君主的な独裁者ではなく、半独立の重臣連の意見調整役に過ぎなかった。などでしょうか。
 一々取り上げていては切りがないので、今回は個人的に一番感心した、北条早雲の出自来歴の研究を語ってみたいと思います。

 京極伊勢氏の一族備中出身の伊勢新九郎応仁の乱時に足利義視*3の近士として仕え、義視の都落ちに従って伊勢に下り、そこで浪人に。数年後今川義忠*4の室となっていた妹*5を頼って駿河に下向。文明八(1476)年に義忠が死ぬと、嫡男竜王*6の叔父の立場を利用して、家中を取り仕切り、竜王丸成人まで今川一族の小鹿範満*7家督を代行させることに。そこでの活躍で縁故を得たか、同十一('79)年上京し申次衆として再仕官。長享元('87)年約束を違え竜王丸成人後も家督を譲ろうとしない範満討伐の為再下向。その時の功で富士郡下方十二ヶ郷と興国寺城与えられる。以降の活躍は各種講談に語られる通り。
  
 という研究結果になるそうです。これによりどうなるかというと、北条早雲が名もなき素浪人の身から大名に成りあがったという通説は嘘で、下剋上の戦国の世といえど戦国大名の殆どが国人一揆により擁立された地方の有力者であり、なんの背景も持たぬ無一文から大名まで成りあがったのは豊臣秀吉松永久秀*8の両名だけ*9であるということに成ります。少し寂しいですね。

戸惑うことをけして怖れずに 未来のドアをその手で開けて

 保守本流の過大な期待を背負って安倍首相擁立されて早三月。早々に傀儡の馬脚を現し、小泉政権の功績を無に帰そうとしていますが、いつの時代も独断専行の既得権益打破は難しいもののようです。ビジネスの模範とされ、男子の憧れを一新に集める戦国武将でさえ、その実体は所詮国人一揆の利益代表でしかなかったのですから、しょうがないと言えばしょうがないのかもしれません。信長や小泉の破天荒な偉大さが痛感されます。安倍のお坊ちゃんには創業の大義をなせるほどの器量は最早期待できそうにありません。次の地方選・参院選で適度に負けて、次の候補に道を譲ってください。麻生さん、前原さん、小泉の破壊した戦後レジームの上に新たな秩序を構築する、義詮・秀忠の役割を期待していいですか?

 当サイトは麻生太郎前原誠司両氏を応援してます。

今日の一行知識

夫が泥酔してしまったので、代わりに出陣した女性がいる。*10
昨今流行の当邦猛女列伝。当分ネタ切れの心配はなさそうです。

嵐の中で輝いて

嵐の中で輝いて

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*1:管領右京大夫。父勝元、母山名持豊養女。

*2:宗瑞。伊豆・相模の戦国大名。奉公衆。父伊勢盛定、母伊勢貞国女。旧名:伊勢新九郎盛時。

*3:義政の弟。権大納言。父義教、母日野重子応仁の乱の元凶。

*4:駿河守護。治部大輔。父範忠。

*5:北川殿。父伊勢盛定

*6:氏親。駿河遠江守護。修理大夫。父義忠、母北川殿。義元の父。

*7:今川義忠の従兄弟

*8:大和の大名。弾正少弼。出自不明。

*9:油売りから成りあがったといわれる斎藤道三も、実は土岐氏重臣長井氏の乗っ取りまでは父親(長井新左衛門尉)の功績の為、最下層からの成り上がりとは言い難い。

*10:諏訪部遠江守の妻