脱積読宣言

日々の徒然に読んだ本の感想書いたり、カープの応援したり、小旅行記書いたりしてるブログです

親王と王について

ブログちゃんねる:今日誘拐犯の容疑者になってて警察が家に来た
名文。これくらいの文章書けるようになりたいなあ。

 久しぶりに通常更新と意気込んでみたら、今日も今日とて、金本アニキとシーツ大先生によく躾けられた打線は追いつかない程度の反撃で沈黙。もう何をかをいわんや。

 さて、「久遠の絆ファンサイト」*1さんや「綾川亭日乗」*2さんにリンクを貼っていただいたお陰で、ここ二三日ヒット数が急上昇中。「目指せ毎日更新」と懲りずに誓った矢先に、あまりにも不甲斐ないカープの敗戦。執筆意欲と勝率が反比例するのは勘弁して欲しいものです。
 とまれ、この新規読者獲得の千載一遇のチャンスを逃す手はないので、今回は9/6のandy22さんのコメントに触発された小ネタでお茶を濁させていただきます。例によって、一夜漬けの適当な文章なので、訂正突っ込みおまちしております。

あなたの証拠をさかのぼるように

 皆さんは学生時代に皇子・皇女・親王内親王・王・女王の区別に迷った覚えはありませんか?今回はその歴史について愚考を巡らせてみたいと思います。それではまず本論に入る前にメインで扱う親王・王の辞書的説明から。

親王
 大宝律令以降の天皇の子息・兄弟の呼称。それ以前の名称の皇子もなお用いられた。女子の場合は内親王(皇女)。天皇直近の親族として位階・位田・位封等で特別待遇を受け、臣下の大臣と同格視された。平安初期以降、特定の者のみが親王宣下を受けて親王内親王)となることが慣例化した。


 本来は大王の親族をさしたが、律令制では天皇の親族で親王内親王)を除く五世孫までの者。実際には六世孫以下も王と称した。女子は別に女王とも称する。親王に対して、諸王と総称される。皇親の範囲内では叙位・給与等に特権があるものの、一般に臣下と同等の扱いを受ける点が親王とは異なる。
 近代においては、明治二十一(1888)年の皇室典範により、天皇の子から玄孫(四世)までを、男を親王、女を内親王とし、五世以下をそれぞれ王・女王とした。戦後の新皇室典範では皇孫までを親王内親王とし、三世以下を王・女王とする。

成文化以前

 上古に於いては皇親は男子は「〜尊」「〜命」、女子は「〜媛」「〜姫」と呼ばれていました。下って垂仁・景行期に「〜皇子」「〜皇女」の呼称が見え*3、推古期には「〜王」記述が確認できます。この時代にはまだ天皇との親等の差で皇子と王を区別する慣習はなかったようで、同一人物に「〜皇子」「〜王」の混用が確認できます。

令の規定

 天武朝以降天皇制の確立に伴い「親王」の呼称が生まれ*4、大宝期以降は王と親王が峻別されるようになります。その後大宝律令で成文化*5され、以後その規定が遥か明治維新まで用いられ続けます。
 具体的な内容は、「天皇の兄弟及び子供を親王とし、それ以外を王とする。ただし、皇族として扱うのは天皇から五世の孫まで」*6というものです。

親王宣下

 日本の歴史は律令の形骸化の歴史。平安期に入ると、天皇の子と雖も親王宣下を受けねばならなくなります。
 親王宣下は天武帝の二世王大炊王淳仁天皇)が即位した際、令の規定に従い、彼の兄弟子供を親王に格上げしたのが初例です。次ぐ光仁天皇も天智帝の二世王から即位した為、同じ処置が為されます。以下嫡流直系相続の恒武・平城両帝の際は行われなかったようですが、傍流相続の嵯峨帝の時代に臣籍降下の制度と共に王も勅裁あれば親王とするとの詔が発せられます。
但し実際に適用されて王から親王への昇格が行われたのは時代も下り、三条帝の二世王敦貞・敦元・儇子・嘉子の四人が親王宣下を受けたのが最初です。しかし、二世王に宣下する場合には事前に天皇の猶子とされてから与えられており、親王天皇の息子(兄弟)の原則は守られていたようです。因みに宣下は一、二歳の時に受けるのが通例ですが、16歳で宣下を受けた章明親王*7などもおり、一定しません。
 当初は天皇の子は無条件に親王宣下を受けることができていましたが、時代が下ると親王宣下を受けれず王止まりの者も出てきます。後白河帝の息子以仁王などはその典型でしょう。臣籍降下親王宣下により、最盛期は500人を数えた王も平安末期には在京の王僅か一人というありさまでした。
 鎌倉後期には天皇との縁戚の遠近に関わらず代々親王号を賜る世襲親王家
*8が誕生し、令の規定はほぼ完全に死文化します。

明治以降

 一気に飛ばして時は明治の文明開化。王政復古と文明開化の美名のもと、欧風の王室を規範とした皇室典範が誕生し、ようやく律令がその役目を終えます。そこでは親王宣下の慣例を廃し、生まれたその瞬間から親王となる往古の風を取り入れます。しかし、院政の廃止に伴う即位年齢の高齢化を懸念したか、親王の範囲は一気に広げられ、四世孫まで(と宮家)が親王号を名乗れることと成ります*9
 そして、現在。戦後改革により宮家が廃され、親王も孫までに限られ、現在の皇室が形作られます*10

いつか時代の夜が明ける

 えーと、面白いこと書けず出来の悪いレポートみたくなってしまいました。やっぱノープランで書くと碌なことありませんね。要反省。
 
 当ブログで皇室を取り上げるのはこれで数度目ですが、調べる度現代皇室の歴史との乖離が気になってしまいます。それもこれも中途半端な欧化が原因ではないでしょうか。最古の王族の気概を取り戻すためにも、往古の制、特に院政の復活を強く望みます。私は院政は日本人の辿りついた権威と権力の分離の究極の形態であると信じて止みません。どうせなら少しでも新しく見栄えのいい御輿を担ぎたいとは思いませんか?
 

参考文献

古事類苑 帝王部

古事類苑 帝王部

皇室制度史料 (皇族 3)

皇室制度史料 (皇族 3)

芝葛盛「皇室制度」『日本歴史講座 14』(1933)岩波書店
竹島寛『王朝時代皇室史の研究』(1936)右文書院

今日の一行知識

天皇の本名と同じは畏れ多いという理由で名字を代えた一族がある
 大伴氏→伴氏。当時の皇族は乳母の家にあやかって名づけられるのが通例でしたが、大伴親王淳和天皇)というど真ん中直球のネーミングされた人が即位してしまった所為で、改名を余儀なくされたようです。というわけで大伴家持と伴義男*11は同族です。受験生泣かせの紛らわしい変更ですが、しっかり覚えましょう。

魂のルフラン

魂のルフラン

*1:久遠の絆ファンサイト はてな

*2:http://d.hatena.ne.jp/andy22/

*3:日本書紀』「垂仁紀」〈二十三年冬十月壬申、天皇大殿前に立ち誉津別皇子之に侍る〉(以下全て書き下しは管理人。)

*4:日本書紀』「天武紀」〈八年十二月戊申、嘉禾により親王諸王諸臣及び百官人等に禄を給う。各々差有り。〉

*5:大宝律令逸文しか残っていませんが、令義解に採録解説された養老令とほぼ同文なことが知られています。更に『帝王編年記』「文武紀」に〈大宝元年今年皇子を以って親王と号す〉とあるので、大宝令にも下記と同様の規定があったと考えても間違いではないでしょう。

*6:『令義解』「継嗣条」〈凡そ皇兄弟皇子皆親王と為す。(割注省略)以外並べて諸王と為すも、親王より五世は王名を得るといえども、皇親の限りに在らず。〉

*7:醍醐の皇子

*8:いわゆる宮家

*9:皇室典範』「第七章皇族 第三一条」〈皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王、女を内親王とし、五世以下は男を王、女を女王とす〉(原文はカタカナ・旧仮名遣い)

*10:皇室典範』「第二章皇族 第五条【親王内親王・王・女王】」〈嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする〉

*11:応天門の変で失脚した人