DQNネーム(子供の名前@あー勘違い・子供がカワイソ)
名前は大事。とっても大事
コメントコメント嬉しいな。久々の身内の以外の方からのコメントにインスパイヤされて今回のエントリーでっちあげてみました。途中でくじけなければ、超長文になる予定なので、覚悟して読んでくださいまし。
運命はいつも書き換えてゆける
諡号の一般論
諡号
天皇の死後に徳を称えて贈る称号。おくりな。和風諡号は、文武天皇に奉られた倭根子豊祖父天皇のごときもので、葬送儀礼の殯宮での誄において奉られた。殯宮儀礼が整った6世紀前半の安閑天皇のころ成立したと考えられ、複数の諡号が伝わるなど不確定な面もあるが、9世紀初頭まで続いた。公式令に見える〈天皇諡〉は和風諡号と考えられ、漢字二字からなる漢風諡号は8世紀以降に作られたものである。10世紀以降は諡号は奉られず、譲位後の居所などの院号を追号とした。なお皇后や皇太子の諡号の例もあり、臣下にも歴代摂関や太政大臣には忠仁公(藤原良房)などの諡号を贈った。 (『岩波日本史辞典』より抜粋*1)
漢文で歴史書を書く際、長々しい日本名だとかっこ悪い。というのが、原点だそうですが、現在の我々にとってはこちらこそが、天皇の名前として定着しちゃってますね。歴史的には諸説ありますが、淡海三船が天平宝字六(762)〜八(64)年頃に神武〜元明・元正までの諡号を撰進したのが嚆矢だそうです。以降文徳頃まで、事績から名づけられ続けますが、宇多帝以降から住居の名を用いた院号をそのまま諡号に転用するのが一般的になりました。以降は平家滅亡〜承久の変の動乱に一時漢風諡号が復活した以外は、地名由来の諡号が続きます。事態が変わったのは江戸中期の光格帝の時代。折からの大義名分的尊王論に後押しされ、復古主義をぶち上げた彼の手により、漢風諡号が復活します。以降は皆さん知っての通り、明治帝以降は元号と同じ味も素っ気もないネーミング方式が定着してしまいました。多少面倒臭くとも、別号を考えて欲しいと思うのは私だけでしょうか。
分類
- 漢風諡号・・・神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀・神功(皇后)・応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統・文武・元明・元正・聖武・光仁・桓武・仁明・文徳・光孝・崇徳・安徳・顕徳*2(・土御門)*3・順徳・光格・仁孝・孝明
- 明治に入ってからの追号・・・弘文(大友皇子)・淳仁(廃帝*4)・仲恭(九条廃帝)・長慶(吉野帝)
- 生前の自称からの転用・・・孝謙・称徳(宝字称徳孝謙皇帝)(・後醍醐・後村上)*5
- 院号(在所からの命名)・・・平城・嵯峨・淳和・清和・陽成・宇多*6・朱雀・冷泉・円融・花山・一条・三条・白河・堀河・鳥羽・近衛・二条・六条・高倉・四条・亀山・伏見・光厳・光明・正親町・桜町
- 陵地号(陵墓からの命名)・・・(柏原)*7・(深草)*8・(小松)*9・(宇多)・醍醐・村上
- 前帝号・・・後一条・後朱雀・後冷泉・後三条・後白河・後堀河・後嵯峨・後深草・後宇多・後伏見・後二条・後醍醐・後村上・後亀山・後光厳・後円融・後小松・称光*10・後花園・後土御門・後柏原・後奈良*11・後陽成・後水尾・明正*12・後光明・後西*13・霊元*14・後桜町・後桃園
- 遺言によるもの・・・(白河)・(後深草)・(亀山)・(後宇多)・(後伏見)・花園・(後嵯峨)・(光厳)・(光明)・崇光・(後円融)・(後小松)・(後水尾)
- 不明・・・(土御門)・東山・中御門・桃園
- 元号・・・明治・大正・昭和・(平成)
奇妙な共通点
力尽きました。以下後日。
さて腰を据えて続きを。天皇の諡号の実態は以上のような状況なのですが、諡号の選定が機械的なものでなく、恣意的なものである以上、ネーミングにはある一定の法則は生まれてきます。ここではそれを幾例か紹介してみたいと思います。
- 「神」・・・皇統の創始者。一番理解しやすく、学説でもある程度認められてる説です。言わずとしれた初代神武、実在最古の天皇「ハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)」崇神、系図年譜が信頼できる最古の天皇応神とその母神功皇后とビックネームが雁首揃えています。
- 「崇」「徳」・・・恨みを呑んで憤死した天皇に贈られる諡号。こちらは井沢元彦が熱心に主張する説で、これもそこそこ有名です。古代の懿徳*15・崇神・仁徳を例外にすれば、崇峻*16・孝徳*17・崇道*18・文徳*19・崇徳*20・安徳*21・顕徳*22・順徳*23・崇光*24と分かりやすいですね。こんな露骨に不吉な名を皇太子*25につけるとは、宮内庁おつきの学者連中はどんだけ能無しの盆暗揃いなのでしょうか。
- 「武」・・・皇位継承争いに勝利して即位?これと次は完全な私見です。あんまり信用しないで下さい。(武烈)・天武*26・文武*27・聖武*28・桓武*29。血塗られた連中が揃ってるようには思いませんか?
- 「光」・・・皇統が傍系に移動した際の初代?漢風諡号の「光○」の天皇は皇統移動の初代となっています。次章はその三人について詳しく見てみたいと思います。
絶望の森に差し込む光よ
光仁天皇
和銅二(709)〜天応元(81)年。天智天皇の孫で施基皇子の子。白壁王と称し大納言等を歴任。宝亀元(770)年62歳の時、藤原永手・百川らに擁立され即位。称徳天皇時代の仏教偏重政策を改め、僧尼の統制、冗官の整理、税収の安定化など律令制再編の先駆的施策を進めた。
天武系から天智系への一大転換。恩を売り、勢力を確立しようと図る藤原一族に担がれ、吉備真備らの推す天武の孫文屋大市に勝利し即位。聖武の娘の妻井上内親王とその子他戸親王を追放するなど天武系の一掃に尽力。息子桓武の代には遷都まで行うなど、皇統変更の意識は強かった模様。先代称徳から見ると祖父の従兄。
光孝天皇
天長七(830)〜仁和三(87)年。仁明天皇第三皇子、母は女御藤原沢子。諱は時康。陽成天皇の廃位後、従母弟の藤原基経に擁立されて元慶八(884)年55歳で即位。万機の政をまず基経に諮らせ、実質上の関白の初例を開いた。臨終に際し子の源定省(宇多)を親王に復し皇太子とした。
子が臣籍降下済みな点など、皇位からほど遠いところにいたのが、陽成廃位に伴い、皇位がふってきたラッキーマン。その恩もあり藤原氏の傀儡だったようです。先代の陽成から見ると大叔父。
光格天皇
明和八(1771)〜天保十一(1840)年。江戸中後期の天皇。閑院宮典仁親王第六王子。母は岩室磐代。幼称祐宮。諱は師仁、のち兼仁。聖護院門跡付弟となるが、安永八(1779)年後桃園天皇急死に伴い、女一宮欣子(皇后新清和門院)との年齢的釣り合いから養子後嗣となる。君主たる自覚が強く、尊号事件では朝幕関係の溝を深めたものの、寛政期以降、朝儀復興を強く推進した。復古様式で再建された寛政度内裏(90)をはじめ、神嘉殿(91)、石清水・賀茂臨時祭(1813-14)などの再興がある。院政をめざして文化十四(17)年皇子恵仁(仁孝天皇)に譲位。
水戸黄門が火をつけ、頼山陽らが煽った尊王の気運に乗って、王家の復権を目指したお人。漢風諡号を復活させるなど復古を目指す物言う天皇だったようです。息子も仁孝(光仁・光孝からか)の諡号で、新皇統の開祖の自覚たっぷりだったようです。因みに現在の皇室の始祖は彼です。みんなもっと敬いましょう。
信じ続けていいですか
ああ長かった。さすがに自称2600年の伝統を持つ一族を分析するのは骨が折れます。現在御世継誕生に伴い、右と左の罵りあいが活発で、様々な悲喜劇が生まれているようですが、やはりこれだけの伝統を持った世界にも稀有な王族を無碍に失くすのは明らかな損失と思われます。
願わくは、後世の歴史家が現在の天皇家のネーミングに頭抱える位まで、この家と国が続きますように。
参考文献
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- 作者: 森林太郎
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和田萃「和風諡号の成立と皇統譜」『ゼミナール日本古代史 下』(1980)光文社
今日の一行知識
「平成」は史上最悪に不吉な元号
そもそも「平」のつく元号は大乱が多い*30上、薬子の変に敗れ憤死した平城上皇とほぼ同字同音。何考えてこんな名前付けたんでしょうか。理解に苦しみます。革命戦士の皆さん、チャンスですよ。
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*1:以降引用部分で記載なしはこれ
*2:後鳥羽の初号。死後天変地異が頻発した為、不吉の名だったとして改名
*3:「土佐(実際は阿波に減刑)に配流された御門」という明らかに事績からのネーミングですが、三文字が祟って、漢風諡号扱いされないことが殆どです
*5:後醍醐は延喜・天暦の治を理想として、生前から後醍醐と自称し、息子にも後村上を名乗らせていた
*8:仁明の別号
*9:光孝の別号
*10:称徳・光仁から。皇統断絶とそれによる正統への皇統奪回の意味か。天武は渡来系の非皇族説が後小松には足利義満落胤説があり、非正統と認識されていた可能性あり。
*11:奈良は平城の別号
*13:後西院の転。江戸以前は「〜天皇」ではなく「〜院」と呼称するのが一般的だったため「後西(院)院」→「後西天皇」へと変化。西院は淳和の別号。
*14:孝霊・孝元から。理由は不明
*15:若死?古事記では享年四十五とあり、その他の歴史書でも享年七十七が一般的。どちらにせよ百歳越えがごろごろする当時の天皇のなかではかなり異質。
*16:蘇我馬子に暗殺される。公式に他殺が確認できる唯一の天皇。
*17:大化の改新の過程で中大兄皇子らと対立し、遷都した際、難波長柄豊碕宮に取り残され孤独の裡に死亡
*18:早良親王。山部親王(桓武)との熾烈な後継争いの最中藤原種継暗殺未遂事件の嫌疑をかけられ、淡路に配流。その途上でハンストの果てに死亡。死後怨霊化し、長岡京遷都を頓挫させた為、崇道天皇の諡号が贈られる
*19:長子惟喬親王の立太子を望むも、藤原良房の横槍で果たせず第四子の惟仁親王(清和天皇)が即位。以降天皇の地位は形骸化し、摂関政治が始まる。因みに六歌仙は全員この惟喬親王の関係者。
*20:いわずとしれた日本史上最大最強の悪霊。保元の乱に敗れ讃岐に流され、そこで天皇家を呪詛しながら憤死
*21:壇ノ浦にて平家滅亡と運命を共にする
*24:観応の擾乱のどさくさで光厳・光明と伴に南朝の手に落ちた際、弟の後光厳に皇位皇統を奪われる。
*25:徳仁
*27:VS大津皇子。彼については本人の行動というより、親父の草壁皇子の罪を擦り付けられた感じですね。
*28:直接のライバルはいないが、父文武が若死した際、舎人親王・長屋王らの有力皇族がいたにも関わらず、元明・元正のワンポイントリリーフという超変則的継承の形をとってまで、強引に立太子
*29:VS他戸親王・早良親王。天武派の他戸親王、大伴派の早良親王を駆逐した藤原北家の勝利。
*30:ex:天平(729〜49):長屋王の変、橘奈良麻呂の乱。寛平(889〜898):新羅の賊が対馬に来襲。承平(931〜38):承平・天慶の乱。康平(1058〜65):前九年の役。平治(1159〜60):平治の乱。正平(1346〜70):観応の擾乱。